船津

船津

■所在地佐賀市東与賀町
■登録ID1109

船津は東与賀町で一番東北部に位置し、東は八田江を隔てて川副町西船津に相対し、北は立野に西は上町、南は今町に接している。言わばこの船津は八田江によって昔から産業上・交通上・生活上の便益や恩恵を受けて次第に繁栄し発展したものである。
この八田江は川副郷と与賀郷の境を南へ流れ、八丁井樋で有明海に流れ込んでいる。昭和17年佐賀江の枝吉樋門が完成して悪水を排出するようになったが、以前は大崎川の末端の本庄町西八田と北川副町東八田の樋管が起点であった。平常は水が少ないが雨期には枝吉樋門等を解放するので水量が増す。海口の八丁井樋の開閉で満潮時は淡水を導入することができる。即ち佐房(西川副)と今町間に、この八田江淡水導入の樋門ができて、水田の灌漑や飲料用水等必要欠くべからざる河川である。大正4・5年の『東与賀郷土調査』に次の記事がある。
「今カラ凡ソ三百年許リ前鍋島直茂公ノ時、成富兵庫茂安ノ設計ニカカワリ築キシモノデ、故老ノ話ニ本江ハ兵法上必要ナル所デアルトモ云ヒマス維新前マデハ藩主カラ莫大ナ資金卜多数ノ役夫トヲ遣ッテ浚ラヘヲナシテヰタノデ運送船ナドモ八田宿マデハ自由ニ往来ガ出来タソウダ今ハ北川副・西川副・本荘・東与賀ノ四ヶ村ノ組合デ支配シテヰマスガ僅カ漁船ガ船津ノ南マデ通フ位デアル」
このように遠く藩政時代から毎年2〜3回は公役として、その沿岸の住民数百人を出夫して、泥土さらえ作業を行ったのである。それで船津までは勿論のこと漁船や荷物船など上流の本庄町八田村辺りまで堤防の松並木を眺めながら出入りしたという。しかし有明海の干潟が堆積土のために漸次高くなって、この八田江も年々と浅くなり船の運航はできなくなりつつある。この事は『東与賀村の住民生業の変遷』として次の記録がある。
文政元年(1818)頃まで、船津川は大きく流れて船の通行便利にて、流域にある船津地区の住民はほとんど漁業を営んでいたものである。その後船津川が次第に埋まり船の通行が全く不自由となり、日と共に漁業は減少し現在僅かに1割足らずの影をとどめるのみ。現今では大部分商業や他の仕事で生計を立つるに余儀なくせられている。

出典:東与賀町史P1163