辻 演年

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辻 演年

■所在地佐賀市東与賀町
■年代近世
■登録ID1178

辻演年は文政2年(1819)東与賀村住吉の鍋島藩士の家に生まれ、またの名を忠六と称した。
のち川副代官所の勘定頭など勤めたが、28歳で藩の搦方役人となって、犬井道地先の別段搦干拓の監督を手はじめに、大小十数か所の干拓を造成している。これまでの土塊と木材で造る工法を改め、石材を使用する等の改善が試みられている。しかし別段搦も台風で再び決壊して4年の歳月を経て嘉永4年(1851)にやっと竣工を見たので、嘉永搦と呼ばれた。この頃東与賀地先の白島井樋以東の干拓が約2年を費やし嘉永3年冬完工している。
その後、長崎防備は急を告げ、演年は長崎に赴き砲術研究家本島藤太夫とともに、道路を造り、石工長以下を指揮して難行苦業のすえ、砲台を四郎島山頂に築いた。約2か年の歳月は流れ嘉永6年の冬であった。
帰って安政2年(1855)嘉永搦の潮止め工事を更に行い、その後東与賀の大搦、大詫間の大搦に手をつけ、安政5年の春、犬井道の無税地搦、冬には与賀搦を竣工させ、万延元年(1860)大詫間の大搦と犬井道の搦が共に竣工した。
この春再び長崎に赴き、稲佐や深堀等に砲台4か所を構築している。台風がくれば帰って干拓の修復にかかり、佐賀と長崎の往復も多い。明治になっても干拓一筋に生き、白石の明治搦干拓では、県の命で干拓に当たり現場で寝食を共にした。ところが明治8年の台風では堤防、小屋もろともに決壊した。演年は九死に一生を得て村里へ泳ぎついた。このように身命をかけて拓いた豊かな美田数百町歩は、今も郷土農民の生活の支えとなっている。
この偉業をたたえ記念碑が、犬井道海童神社に明治22年(1889)6月に建立された。碑文はこの苦闘の歴史を演年自ら誌し、干拓愛護を念じている。明治29年、数え歳78歳で、干拓一すじ男の名を残して他界した。

出典:東与賀町史p1235