聾(つんぼ)なおし地蔵※歴史的固有名詞であるためそのまま使用しています | さがの歴史・文化お宝帳

聾(つんぼ)なおし地蔵※歴史的固有名詞であるためそのまま使用しています

所在地 佐賀市三瀬村
年代 近世
登録ID 1266

出典資料から記載

佐賀県佐賀市北の最果て、三瀬峠の絶頂(標高583m)、道路の西側に大きな石の碑が建てられている。この碑は1柱の碑に見えるが、よく見ると、幅約40cm・高さ2m余の角柱を2本密着させてある。
 北側(右)の碑には
   正面に、從是北筑前国
   北面に、怡土郡飯場村抱
   裏面に、文化十五年戊寅四月
 南側(左)の碑には
   正面に、從是南肥前国
   南面に、神埼郡三瀬山村
   裏面に、文化十五戊寅歳四月書
と彫刻されている。何れも能筆な彫りあとであるが、肥前国の方がやや肉太で力強く感じられる。年号のかき方もちがうので、おそらく別人の書であろう。
 この峠を境として、佐賀・福岡を結ぶ国道263号線が曲折しながら南北に縦走している。国道指定を受けたのが昭和35年4月22日であった。沿道の山々には小鳥が多いというので、この国道をバードラインとも名付けられた。
 舗装道路になってから日は浅いが、この道路の歴史は古い。 昔は、杉や雑木が昼なお暗く生い茂った渓谷の底を縫う細道で、涌き出る水のために湿気の多い坂道であった。それでも北肥前から筑前に通ずる街道ともいうべき要路で、肥前側では筑前路といい、筑前側では肥前路と呼んでいた。古記録にはこの辺の情景を「旅客難塗の景」と表現した文書も残されている。戦国時代にはノロシが揚がると飛脚が韋太天走りをしたところである。いまは渓谷を蛇行する舗装道路。佐賀・博多両駅間の最短路で、観光・産業の重要なルートとして、車両の交通量も急激に増加した。
 「聾(つんぼ)なおし地蔵さん」は、この峠にある国境碑の正面、国道をはさんで東側切割のやや高いかと思われる場所の、小笹のまじった灌木の茂みの陰にまつられている。
 文政6年癸未(1823)6月11日に建立されていて、施主はわからない。
 この地蔵さんは、耳のよく聞こえる地蔵菩薩で、肥前・筑前両側の人々の話し声を大小残らず聞きとることができ、耳の不自由な人が祈願すると霊験あらたかであると信じられた。
 参詣する人は、ここにそなえてある火吹竹を1本借りて帰り、お地蔵さんを念じながら家族のものにたのんで、聞こえない耳を、毎日くりかえし吹いてもらっていると、いつの間にか耳が聞こえるようになった。耳がなおると、あらためてお礼のために参詣し、そのときは新調の火吹竹をつけ加えて返納することになっていた。
 むかしは沢山の火吹竹が供えられていたという。いまでは火吹竹を見かけないが、参詣する人はあとを絶たない。肥前よりも筑前の人々によく知られているようである。筆者がこの稿に掲載する写真を撮りに行ったときも、福岡から来た50年配の上品な婦人がお詣りしているのに出会った。聞けば、耳の悪い孫のために祈願しているとのことであった。
 この峠の近くには泉が涌き出ていて、むかし、旅人はそこに休んで咽をうるおした。大正5、6年頃までは2、3軒、昭和の初期には1軒の茶屋が残っていて、峠を越す人や祈願のために参詣する人々に、甘酒・砂糖餅・うどん・そば・おこし・飴がたなどを売っていた。峠についた人たちは、その茶屋や近くの草原に腰をおろして、肥筑の景色を眺めながら、世間話に花を咲かせた。
 明治7年の佐賀の乱には、小倉鎮台の小笠原大尉の率いる官軍の一隊はこの道を進撃して来た。これに対し峠を死守しようとする江藤新平の副将六角大之進の指揮する北山軍勢との間に激しい戦闘が行なわれた。小笠原大尉は進軍に際して
  三瀬山峯の松風あらくとも
     やがて治まる御代や来るらん
と詠吟したといわれるが、その声はもとより、指揮する人の叱咜する声、戦う士卒の雄叫びの声など、前記旅人の世間話とともに、お地蔵さんの耳には余すところなく聞きとられたことであろう。
 それから過ぎる幾十星霜。いまは車で峠を越す人々の声を聞き、香華をたむけて祈る信者の姿を、慈眼に笑みをたたえながら見守っている。
出典:三瀬村史p670

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