七草粥

七草粥

■所在地佐賀市三瀬村
■登録ID1276

正月7日に七草粥を食べて祝う行事である。これは大陸から渡ってきた風習といわれ、わが国では平安時代のはじめ宮中で行なわれたが、枕の草子にも「七日の若菜」とみえ、鎌倉・室町時代にも行なわれていて、公事根源に「正月七日に七種の菜羹(菜の葉の汁)を食すれば其人万病なし」とある。七草粥につくるようになったのは室町時代になってからといわれる。七草を俎にのせ、
  七草なずな 唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先にトントントントン
などと囃して叩くが、はやし言葉の意味はよくわからない。
 江戸時代にはこれが儀式化し、若菜節・七草節・人日などといわれ、五節句の一つに数えられて一般にも普及した。
 七草の種類については時代によって違い、現行の風俗でも土地によって違うことが多い。
鎌倉時代には「芹・なずな(ペンペン草)・御形(母子草)・はこべら・仏の座(タビラコ)・すずな(蕪の葉)・すずしろ(大根の葉)の七種とされたが、現今ではなんでも七種類あればよいと考えられている。
市場直次郎著『日本の民俗・佐賀版』には、佐賀市大和町中川地域の唱え言葉を一例として次のようにあげている。
  タタキ莱シャンシャン、やりかたなあし、とりかたばっかい。
 三瀬地区では特殊な唱え言葉は聞かないが、七草雑煮や七草汁などをつくって食べる。
 『神代家年中行事扣』には、1月6日の行事に
 一、七草摘候事
 一、鬼火竹伐候こと
 一、其日時にたたき莱たたき鬼火たき仕迄にたたき候事
   いづれも恵方に向い候事
とあり、前日までに七草や鬼火の準備をととのえることになっていた。
 同7日には、
一、鎧餝候こと  武器類取餝可申こと
一、鎧餝相備候事  但、年玉として紙に米・こんぶ・かちくり・かつお・だいだい・水引にて祝い催事
 当日は被官百姓中相振舞候に付 下の通り用達仕置候事 但鎧の餅は少々づつ呉遣侯事
 一酒        一、にしめ こんぶ・大根・ごぼう・くじら
 一丼 数の子    一、取肴  するめ・結こんぶ・この外見合 
 一鱠 まるみ大根  一、汁   たたき菜・くじら
    魚      一、ゆし     
一、鬼豆打候事 家来の内より両人相勤候事
 この控によれば、神代家では七草粥ではなく、七草汁をつくり飯を別にたいたようである。
被官の下級武士や百姓たちに振舞うのは、前日、竹伐りや七草摘みの一日がかりの大仕事に協力したものたちを招いたのであろう。
 また、現今では節分の日にやる鬼はらいの豆まきを、神代家ではこの日に行なっている。

出典:三瀬村史p630