三瀬の方言

三瀬の方言

■所在地佐賀市三瀬村
■登録ID1303

方言は一地域で使われるコトバであるから、その地域の生活や習慣、気候、風土などと密接な関係がある。だから、一口に佐賀方言といっても、その方言圏内各地の如何によっては、いろいろな差異が認められる。
 三瀬、脊振地方の酒盛唄に「ノーヤー節」というのがあり、その一節に次のような文句がある。〝おどま山からじゃっけん ノーヤーお言葉どま知らぬよう あとでご評判な頼みます"
 この唄の由来は、今から400年ほど前、当時の三瀬城主神代勝利が酒席の帰りに即興で歌ったものだといわれ、ひと昔前までは、ノーヤー節が歌えないようでは山内の者でないとまでいわれた。
 この「お言葉どま知らぬよう」というのは、佐賀平野部、当時は佐賀の豪族龍造寺隆信に対していった言葉であるが、平野部と異なった方言を持っていたことがうなずける。
 また、山内だけに他地方からの文化の浸透も遅く、比較的昔ながらの方言が他地域より長く使われたと考えられる。佐賀方言研究家の志津田藤四郎先生の『佐賀の方言』の本によると、三瀬地方は佐賀方言のうち東部(ヒガシメ)方言に入れられている。
 江戸時代、佐賀の戯作家案間坊暮成が、佐賀の日峯さん(松原神社)に参詣に来ていた奥山内者の使う言葉や所作がおもしろかったので『北山辺の者』という戯作を残しているので紹介する。

 中にも、北山辺の者と見えて、男女僧俗相交り、息せき来懸り、中にも、六十七八斗りの親父と六十斗り鼻ひしげし老母、七、八斗りの孫とおぼしき手を引て、其外、骨蔵、雁八いう若者打連立て。
 若「ヲヲイ骨蔵、早ふこんかァ。こりゃァどふかァ。ぢっぱな事ゾヲ。捻右ヱ門祖父も、おくろうぼさんも、乙どんが手を、きつうひっつかまえて、連レうちょしなはんようにして、此から、早ふ見んかァ。こりゃァどふきゃァ。ぢっぱな事ゾヲ。アノまた、提灯のよんにふさァ。骨っまこてへようヲ。ちゃうちんの、百も十こもさがって、青ヲかきれの、赤ァかきれのテ、どこもかんも引きちらかして、ぢっぱに、白もんどんが仕出ァておるばん。コリャドウァ。

 戯作の内容からは、佐賀ン町の者が、他の地区の者に対する場合「しらんこんナラヲ。おそてへ遣ろふ」というような態度に対して、他地区の者は「佐嘉辺の人達ンの物いいなるとハ、御城下だケへ、物言が上品にあるテテ、北山辺で聞いて居イましたれど、わしン共マァ、そんぎゃんナァ、口がまはらんばん」といたように描かれており、佐賀城下の者からは、三瀬付近の者は田舎者と見られていたことがわかる。

出典:三瀬村史p688