日吉神社 | さがの歴史・文化お宝帳

日吉神社

所在地 佐賀市三瀬村大字藤原1130(中鶴)
年代 中世
登録ID 1318

出典資料から記載

社号 山王社(山王権現)
 祭神 大山咋神
創立不詳であるが、比叡山麓の日枝神社にまつられている日吉山王権現の分霊をいただいて祭祠した神社である。
 天文23年(1554)、当時の三瀬城主神代大和守勝利が、嫡男刑部大輔長良の病気平癒のお礼と、山王の神使である猿の霊をしずめるために、社殿を造建して寄進し、祭典を執行して以来、中鶴氏子によって年々祭祀が営まれるようになった。
伝説口碑によれば、今から400余年前、三瀬城主神代勝利が佐賀の龍造寺隆信に破れて一時三瀬城を去り、筑前国怡土の豪族原田了栄を頼って長野村に蟄居していた。そのころ、嫡子長良は一日鉄砲を持って猟にでかけたが、松の大木に野猿がのぼっているのを見つけ、射ようとして狙いをつけると、猿は腹をなでさすって両手をあわせ悲しそうに啼き叫んだ。長良には的を示して侮っているように見えたので、しのび寄って1発のもとに撃ち落してしまった。弾丸は狙ったとおり腹の真中に命中していた。得意満面の長良は家来に命じて持ち帰り、よく調べてみると、猿は腹に蔦かずらを岩田帯のように巻きつけていて、子をはらんでいるようす、早速小刀で腹を開いてみると、子が2匹はいっていた。長良はこれを見て、さてはあのとき、腹をさすって的を示しているように見えたのは、腹に子がいるから命を助けてくれるように両手を合わせ、啼きながら命乞いをしていたのかと哀れに思い、深く後悔した。
 ところが、長良は、それからというもの、夜毎に啼き叫んで恨む猿の姿を夢にみてうなされ、昼はうつつに悲しそうな猿の姿が目の前にちらついて食欲もすすまず、身も心も疲れはてて気が狂ってしまった。
 父勝利は嫡男の発狂に心を痛め、猿の死霊がたたったのであろうと思い、脊振山の住僧、伯耆坊・越後坊・燄雷坊・実相坊の四名に命じて、法華経妙典を真読具経させて祈祷したところ、法の功徳があったのか、猿のたたりが消えて長良の気分もおちつき、病気はしだいに快方にむかった。
 全快ののち、勝利は猿の霊魂を後々まで鎮めるために、野波大明神・八龍宮・名尾山大明神ほか各山の領内に経塚をたてて法華経妙典をおさめた。別して上藤原中鶴山王権現は猿のつかえる大主神であるというので、新しい社殿を造建して寄進し、盛大な祭典を執行したという。
 その後、氏子によって年々祭祀が営まれ、元禄7年(1694)には社殿腐朽のため改修、安永4年(1775)に鳥居建立、さらに前回の改修から百年後の寛政7年(1795)2月に老朽のため再び改築された。
 近代になって、昭和15年(1940)、皇紀2600年記念事業として神殿を総石材で建築し、つづけて昭和30?年には拝殿も瓦葺に改築して現在に至っている。
 祭神大山咋神は、山の神大山津見命(大山祗神)とは異なり、出雲系の大年神(素盞嗚尊の御子で年穀(稲)の神)の御子で、別名山末之大主神ともよばれる。山末というのは山の頂上の意である。元来比叡山の地主神とされていたのを、延暦寺の創建にあたって僧最澄がこの大山咋神と大物主神とを合わせて、寺の主護神としてまつったのが山王権現のおこりと伝えられている。
 日吉山王権現には安産や縁結びなどを祈願するものが現在でも多いといわれている。
 日吉山王の神は天台宗の寺院を中心に全国各地に勧請されているので、中鶴山王権現も脊振山天台宗の末社無量寺の主護神としてまつられたのであろう。
 中鶴山王権現の氏子は、水に溺れて死ぬことはないと言い伝えられているが(杠保氏談)、祭神と神社の来歴からみて、安産・縁結び・銃砲狩猟の安全を護る神とするのか至当であろう。
出典:三瀬村史p716

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