七郎神社

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■所在地佐賀市三瀬村大字藤原2482(平松)
■年代中世
■登録ID1321

社号 七郎大明神
祭神 少名彦命・神代勝利
 神社由緒調の鳥巣山七郎神社々伝には鎌倉時代の嘉禄2年(1226)に創建されたと次のように記されている。
 祭神 神代勝俊、或ハ井手野七郎卜云フ第六十六代堀河天皇嘉禄二年丙戌四月上旬藤瀬左馬助卜云フ人創建シテ平松村ノ氏神トス
 祭神 神代勝俊とあるのは神代勝利のことであろう。勝利はその当時まだ生れていないので、神社明細帳にある祭神少名彦命を祀ったのが正しいと考えられ、神代勝利を合祀したのは室町時代の末期少なくとも勝利の死後のことであろう。
 井手野七郎については、後代まで神として祀られている以上、何らかの口碑伝説が残されていなければならないが、村を治めた有力者であったかも知れないというだけで、歴史的な記録や伝説は何一つ残っていない。
 七郎神という社号はこの地方に多く、三瀬村内にも柳瀬玉里七郎神をはじめ岸高、軽井谷七郎神・杠、田宇曽七郎神・宿七郎神・薙野七郎神などがあり、大和町旧松梅村や脊振村西北部、富士町旧北山村川上川上流地域の谷々などの小部落に点々と二十数社も祀られていて、祭神は少名彦命・椎足彦天皇・椎武王・十城別王・志々岐神・新田義貞など様々で一定せず、七郎明神そのものを祭神としているのは脊振村鹿路地域の5社だけである。共通することは、どこの郷民も古くからこの神社を「七郎さん」という親しみのある名で呼んでいることである。七郎明神とはどのような神であろうかと文献をさがしてみても、このような固有の名前をもった神は発見することができない。この神を祀ってある地域は、小城から旧神代領の北山々内に限られていて、これらの地域特有の神である。
 以上のことから考えると、「七郎さん」というのは部落の守護神の代名詞のようにもうけとられる。
 ただ、山内では「七郎さん」は神功皇后の三韓征伐にお伴をした人であるという漠然とした伝説も残っている。七郎神社の祭神に稚武王や十城別王が多くみられるが、この両王は日本武尊の御子で、仲哀天皇の弟、神功皇后とは義姉弟の間柄である。三韓征伐の時には当然行動をともにされたと考えられ、また、三瀬地区に伝えられる神功皇后の山内巡幸は、遠征のための兵員補充が目的であったかも知れないし、「七郎さん」も個人名ではなく、谷々の各集落から七名ずつの若者(郎)が応召し、椎武王や十城別王の配下に入ってはたらいたので、後代になって各部落毎に護国の神・部落の守り神として祀られたのではないかとも考えられる。
 祭神の少名彦命。神代勝利については、玉里神社の項で述べたとおりである。
 なお、鳥巣七郎神社には石の狛犬が一対奉献されていて裏面に藤瀬左馬助の名が刻まれている。また、拝殿の鰐口の銘には
(表)神埼郡ノ内平松山奉掛七郎大明神 藤原朝臣景光 源右衛門
(裏)寛文九巳酉天二月吉日
と刻まれている。寛文9年(1669)といえば、山内は鍋島氏の支配下になっていた。
 この神社は一時荒廃していたが、昭和45年10月、部落氏子によって総桧造りの新しい社殿が建立された。

出典:三瀬村史p719

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