山本軍助利恭の鳥獣供養塔 | さがの歴史・文化お宝帳

山本軍助利恭の鳥獣供養塔

所在地 佐賀市三瀬村
年代 中世
登録ID 1328

出典資料から記載

 今原の杉神社一ノ鳥居前、国道263号線の路傍に、山本軍助利恭の鳥獣供養塔が建てられている。この塔の由来については、次のような物語りが伝えられている。
 山本軍助利恭は永禄6癸亥年(1563)に三瀬の里に生まれた。成人して鉄砲の達人といわれるようになり、この人が目型の山から射った鉄砲の弾は、陣ノ内村の裏山にある樹木にとまっている鳥でも射落したと言い伝えられている。
 軍助は幼少の頃から狩猟を好み、18歳のとき猟神に祈願をこめて、猪千頭を射ち獲ることを祈誓した。
 それ以後毎日、山を駈け谷を巡っては猪を撃ち、射獲った猪の頭数が増えて満願の日が近づくのを無上の楽しみとしていた。
 軍助の家族は、年老いた母と妻の妙子、それに生まれては死に、また生まれては死んでしまい、ただ一人生育した男の子、の四人暮らしであった。母は歳とともに衰え、いまでは明日の命さえ案ぜられるほどの病床にあった。妻の妙子は、病床の母に対して嫁としての温かい孝養を尽すかたわら、わが子の養育に心をそそぎ、夫、軍助に対しては優しい妻として仕え、毎日狩猟に出かける夫の留守を守って、何の不平も言わずに今日までその務めを果してきた。
 家では軍助が猪千頭射ちを立願して以来、なぜか不吉な出来事が多かった。
 愛し子が、母に抱かれて眠っているときにも、また寝床に入ってすやすやと眠っているときにも、不意に激しい泣き声をあげて苦しみもがくことがあり、その有様はちょうど弾にあたった猪の断末魔に似ていた。こうして生れた子はおさないうちに次々に亡くなり、現在の男の子がただ一人生育したのである。老母の気力も射ち獲る猪の数が増すごとに、弱っていく姿が目に見えてはっきりした。妻の妙子は口には出さないが、夫、軍助の殺生の因果が母子にまで報いられているように思われて、ただ、悲しみの涙にくれるばかりであった。
 それにひきかえて、軍助は射ち獲る猪の数が増す毎に喜び、母の念仏の声も、妻のなげきの涙も、耳目にはとどかず、すべては、秋の山路に散り敷く落葉の上を走る猪の足音ととしか聞こえなかった。
 こうして射ち獲った猪の数は積もり積もって、慶長17年(1612)11月19日に999頭になった。
 あと一頭で立願成就という日をまぢかにむかえた軍助は、心もおどリ、その夜は狩仕度を十分にととのえて床についたが、夜のあけるのが待ち遠しくてならなかった。眠ろうとしても、若い時分から射ち獲った猪の大小や、そのときの苦労・喜びなどが、次から次へと脳裏をかすめて眠られなかったが、いつしかうとうととするうちに一番鶏が鳴いて暁を告げていた。
 初瀬の里に忍びよって晩秋の風に、木々の紅葉も散り初めて、北肥の国境に高く聳びゆる猟師ヶ岩嶽も、その峰に続く金山も、雪雲におおわれて、頂にはかすかに白いものをつけていた。
 軍助は今日が満願の日になるか、はたまた明日に延びるかと、心をはずませながら夜も明けきらぬうちに寝床をはなれ、鉄砲を肩にして忽々と家を出た。
 勇ましく出てゆく軍助の姿を、病床にあって眺めていた母の目には涙が一杯光って、大無量寿経普門品の念仏を唱える声がかすかに聞えていた。
 軍助が家を出て、破れた板戸の口から何時になくふリかえって妻の姿を見ると、よる年波と憂世の風にやつれた顔は涙にぬれ、愛し吾子を抱いて見送る姿は、あたかも観世音の再来のように、気高くも優しく美しく見えた。
 その情景を見て、流石の達人軍助も何かしら一抹の暗い影が胸に閃く思いがしたが、行ってくるぞと一声残して、我が家をあとにするのであった。
 軍助が日頃猪を多く獲ったところは、隆信ヶ岩(猟師ヶ岩)を中心にして北嶺の尾根を越えた深い谷間の要処であった。
 今日も第一の目的地は隆信ヶ岩の洞穴。天正9年18歳のとき立願して以来30余年、いよいよ今日こそ最後の一頭、満願成就の吉凶の分れ目と、まだ明けやらぬ晩秋の冷気を身にいっぱいに浴びながら、山神山の曲った坂道を一刻も早く越そうと、一歩一歩を力強くふみしめて登っていく軍助であった。
 山神の峠を登りつめたとき、今日に限って何となく息苦しく覚えた。いままで長い歳月の間にこの坂道を幾百度となく越えてきて、一度も疲れを感じたことがなかったのにどうしたことだろう。われながらとる歳には勝てぬかと、五十路の老いの身をなげきながら、峠の小溜りに一休みしていた。
 晩秋の天気は変わりやすい。霰交りの冷雨が降りだし、かすかな音をたてて峠道をぬらしはじめた。道にはねかえる霰を軍助が見つめていると、どうしたことであろう、この寒気に一匹のミミズがはい出してきたのである。不思議なこともあるものだと思って見ていると、今度は一匹の大蝦蟇(蛙)がノソリノソリと現われて、はっているミミズを一口にぱくりと喰ってしまった。これまた不思議と見つめていると、今度は五尺以上もある蛇がスルスルと出てきて、たったいまミミズを喰ったばかりの大蝦蟇を巻きしめて呑みにかかった。軍助は眼前の出来事のあまりの不思議さに気を取られて、しばらくぼう然と見つめていた。すると山騒とともに冷雨を交じえた一陣の山嵐が、落葉をまきあげて吹きまくったかと思うと、一頭の大猪が、鼻息も荒々しく尾を巻きたてて突進し、蝦蟇を呑んだ大蛇に襲いかかって、噛み切りながら喰いはじめた。
 猪を見てわれにかえった軍助は「よくも大猪が現われたり。これこそ天のわれに与え給えるなり、あな嬉しや満願の千頭目。天の神地の神・日頃信ずる猟の神が、吾に恵みし獲物なり。今日は遠くの目的地まで行かぬうち、現われ出たこそ幸いなり」と、高鳴る胸をおししずめ、かねて用意の種ヶ島に強薬をつめこんで、一撃のもととねらいをつけた。まさに一発、引金をひこうと指をかけたとき、おお恐ろしや、いままで大猪と見えた獲物が白髪の老仙と変り、歯を喰いしばってロからたらたらと血を流し、大口を開いたかと思うと、血のように真赤な一つ目を光らせて、軍助をじろりと睨み返した。
 目一つ坊神の形相のもの凄さに、軍助は身も竦み気も転動して、ねらいをつけた鉄砲を投げ捨て、無我夢中になって、今登ってきた坂道を一目散に駈け下って我が家にたどりつき、顔面蒼白。力も抜け、茫然として上り框に腰を落とした。
 この有様を見た妻の妙子は、静かに軍助の前に進み出て両手をつかえ、涙をまぶたにたたえながら、たったいま半時ばかり前に母が此の世を去ったことを告げた。そうして、いまわのきわに母が言い遺した山本家の素姓と軍助の無益な殺生を悲しむ前世からの不幸なめぐりあわせについて、母の言葉をそのままに軍助に伝えた。
 それは次のような遺言であった。
 「軍助は18歳に成長すると、雨の日も風の日も一日とて休むことなく猪討ちのみに精進して、村人から猪討ちの名人、狩人達者よとほめたたえられると、そのたびごとに慢心し、日を重ね年の過ぎゆくにつれて散化する猪の数をふやし、今日で何頭、明日また幾つ獲れるかと、喜び楽しんで殺生を続けてきた。そのことは言わず語ずとも、この母はよくその実情を知りぬいておりました。何と悲しい山本家の因縁であろうか、逆因縁の恐ろしさ、この悲しい運命の糸に引かれて軍助の母となり、親子として日暮らしする悲しさは、たとえようもないものでした。
 山本家の素姓を言えば、かたじけなくも大職冠藤原鎌足公より16代の孫、藤原実行朝臣の流れを汲む禁裡守護北面の武士、山本上総守殿、寿永の昔、4歳にならせ給う未だ幼い安徳帝を守護し奉り、平氏の公達ともろともに、須磨や明石あるいは屋島の戦いに、雌雄を決しての戦闘も遂に武運つたなく、追われて西海壇ノ浦の決戦に破れ、上総守殿はこの草深い北嶺の谷間に身を隠されたのです。
 その後世を重ねてわが夫軍左衛門利定殿は子に恵まれず、由緒正しい山本家の血統が絶えようとするのを悲しみ、この母と二人で、初瀬の里に鎮座まします薬師如来と、あわせて猪子明神に立願し、如来と大王の功徳によって、私共夫婦に山本家を承け継ぐ男子をお恵み下さるよう三・七・二十一日の祈願をこめました。そのかいあってか月満ちて無事に生まれたのが軍助で、夫利定殿の喜びはこの上なく、生まれた年も生まれた月日も亥の年の亥の日、名も軍助利恭とつけて、その成長を待つうちに、父利定殿は死出の旅におもむかれました。父なきあと玉よ宝よと育ててきた甲斐もなく、前世からの約束事とは言え、立願の神・恵みの神である猪子大王の化身である猪を、18歳のその年から、千頭討ちの立願まで志し、しばしの仮の世に、殺生をもって無上の楽しみとする業につくとは、何と不幸なことであったか、この母にとってはあまりにも悲しい運命の浮世でありました。軍助の日頃獲る猪の命が、一頭づつ消えてその数が重なるたびに、母の命もこの世から遠ざかってゆくような思いでした。
 今日の千頭目は、わが生みの子育ての子軍助が、この母の体を矢玉にかけるも同然。猪の千頭討ちは不成就なれど、母が猪の身代わりとなって、この世から永却に消えてゆくことにしましょう。そして御仏のいます浄土から父利定殿とともに、軍助と妻子が幸長くこの世を過ごすよう、また、山本家御先祖様に対しても恥じないで日送りができるように祈りましょう。お先に逝って御仏様とともにお待ちします。と言い通して、夜の明け方、静かにお亡くなりになりました。」と妻は涙とともに母の臨終の有様を語った。
 軍助は、わが家の素姓と自分の生い立ちの由来を初めて知り、さては、今朝の千頭討ち不成就の不吉な猪の化神は、わが子を思い、命にかえて殺生をやめさせようとする母の一念が神仏に通じた救いの化神であったのかと、母の尊い母性愛に感動するとともに、わが身の無明を嘆きながら母の死を悲しみ悼んだ。
 軍助は長い間殺生を楽しんだ迷いの夢もさめ果てて、とりあえず、親子3人連れ立って、父母の立願した生みの仏、育ての神である薬師如来と猪子大明神にお詫びのために参詣し、以後殺生をやめることを誓った。
 そのあと、長谷山観音禅寺に大禅師をたずねて、今朝方の出来事と母の遺言を物語り、禅師の計らいによって、いままで無益の殺生をした鳥獣の供養を営み、鳥・鹿・猪を刻した供養塔を立てて鳥獣の冥福を祈った。慶長17年壬子11月廿日、山本軍助利恭50歳のときであった。
出典:三瀬村誌p.658〜662

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