徳久

徳久

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1444

  邑主村田家の射撃場があった高土居(たかで-)
 徳久は、町の東北部で嘉瀬川堤防西側に位置している。久保田町で高いところと言えば、嘉瀬川の堤防ぐらいである。古老たちは、この徳久附近を高土居(たかでー)と呼んだ。ここは、維新当時邑主村田家の射撃場のあった所である。大正時代には、この高土居から西肥板紙(現王子製紙)の敷地造成のために、砂の搬出が行われている。また昭和16~8年頃には、馬の運動場もあり、周りには大きな松の木が何本もあった。中副の古賀吉次さん(95)は「農家の馬を4、50頭集めて運動をさせていた。その真ん中には田圃があった」と話されている。集落の北に、水取井樋がある。嘉瀬川堤防上の水取井樋とその北側にある禅門井樋の間に、戦後まもなくまで井樋番の家があり、久保田の用水確保に努めていた。以前の嘉瀬川堤防は、竹薮が生い茂っていたが、萩やススキなどもあり風情があった。嘉瀬川では、砂取り船が川砂を上げ、川の中には鯉や鮒、5月には鮎が川を上がり、クマンチョエビなどたくさんの魚がいた。現在でも多くの釣り人たちがやってきている。この嘉瀬川附近で子どもたちは、竹の子を採ったり、近くのクリークでドジョウを獲ってきて「投げばい」をつけたりして鰻や鯰を釣っていた。しかし、この嘉瀬川も一旦大雨が降ると暴れ川となり、昭和24年・28年の大水害を引き起こした。昭和25年から嘉瀬川改修工事が始まり、堤防の補強やショートカットが行われ、昭和47年頃にはこの附近の竹薮も取り払われることとなった。同集落の山田實さん(72)は「堤防を歩くと季節の移り変わりを感じる。見晴らしが良くなった」と話されている。
  昭和26年引揚者用住宅として建設
 徳久は、昭和26年に引揚者用住宅として5棟10世帯、翌27年に5棟10世帯、またその翌年に5棟5世帯が賃貸住宅として建設された。当時の入居者たちは、20代・30代の若い夫婦とその家族で、住宅の間取りは6畳と4畳半に3畳の板の間(台所)、玄関、トイレであった。井戸は、2軒に1個造られ、土管3個できれいな水が出てきている。外には木造りの風呂があり、夕暮れ時には風呂を沸かす石炭の臭いがたちこめた。住宅ができた時、集落名を町内(当時村内)に一般公募され、当時町衆で医院を経常されて古川源吾氏の「徳久」に決定された。応募の中には「緑ヶ丘」や「新生」などの名称もあった。徳久とは、徳万の『徳』と久保田の『久』をとって名付けられたという。この住宅も、昭和48年当時の住人に払い下げられることとなった。
 水取井樋附近は子どもたちの水遊び場だった
 昭和29年水取井樋側から上水道が引かれる事になるが、その下流は子どもたちのよき遊び場であった。夏の水泳シーズンには、町内はもとより芦刈や三日月・嘉瀬などからも子どもたちが水泳を楽しみにやってきた。それこそ芋の子を洗うような状態であった。集落からこの水取井樋の水路を渡る橋は、昭和35年頃までは板橋で、その上から子どもたちが川の中へ飛び込む。ここは子どもたちの天国だった。当時この附近の川底は、砂地で水が澄み切っていた。初夏には蛍が飛び交い、たくさんのトンボもいて羽化なども見ることができた。この水取井樋の水泳場も、昭和45年から行われた国営幹線水路工事で中止され、その後は各学校にプールが建設され、子どもたちの水遊び場は終わりを告げた。集落が出来た当初は、現徳久公民館前道路を東に行った堤防下の広場に集まり、初日の出を拝み新年の挨拶を交わす行事が行われていた。この行事は、昭和30年代まで続けられたが、その後中断している。昭和49年徳久公民館が建設され、その後毎年1月の日曜日に新年会が行われるようになった。

出典:久保田町史 p.675〜677