快万

快万

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1445

  小城、武雄への分岐点で交通の要所
 快万とは江戸期の村名で、嘉瀬川の西にひろがる平野部に位置し、太俣郷に属する。村の石高は「正保国絵画」「天明村々目録」では、625石余。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」ともに1村と記録され、「天明郷村帳」では小村に宮ノ前・西泉がある。「明治七年取調帳」「郷村区別帳」では、徳万村の枝村と記録されている。名前の由来は、知る人はいないが、快とは「こころよい」満とは「いっぱいになること」であるから、快満とは「こころよいことがたくさんあるところ」即ち「住み良いところ」と言う意味かもしれない。古老達は「かやま」と呼ぶ。「かいまん」がなまったものか。快万集落は、主に徳万交差点より西側に広がる集落で、小城と武雄に通じる分岐点にあたる。以前は、今の徳間集落も快万と一緒であったが、昭和26年頃分離することになった。交差点南の旧長崎街道沿いに「久保田村道路元・佐賀県」の元標石が今も残っている。また、同集落の堤家の庭先には、人指で「おぎからつ・たけおながさきみち」の道しるべがある。大正の始め頃は、36軒ぐらいで30軒ほどが農業をしていた。快万に戸数が増えてくるのは、大正以降のことである。この頃、快万の長崎街道沿いで西の端(北田に通じる道の側)に茶屋が1軒だけあった。この茶屋を「かわそう茶屋」といった。旧長崎街道は道幅が狭く曲がりが多かったため、昭和10年頃の国道改修で徳万交差点から久保田宿に真っ直ぐに通されることになった。この時の国道改修は、北側の人家のみ移転して、道路南側の人家はそのままといわれている。同集落の南里辰男さん(87)は「快万に住んで、1番変わったことは道路が広くなったことだ」、江口克己さん(68)は「子どもの頃、この国道の改修工事現場にあったトロッコでよく遊んだ。また、旧長崎街道には小さな乗合バスも通っていた」と話されている。
 小城へ通じる道路は明治時代
 小城へ通じる道は、明治22年頃に造られている。当時としては、画期的であり、徳万交差点から小城町の入り口まで一直線で、まことに見事な工事だった。この小城県道が出来上がる以前は、鷹匠路の北側から字快満″エンシュウ倉濠〟の西側道路を経て、香椎神社本殿から下の宮に通じる道路を一の鳥居前で踏み切り、進んで旧長崎街道を横切り、原口甚六宅東側の蓮根堀岸に沿って北上し、村田九郎の北島屋敷附近を通過して、乗り越し井樋の水受土居を斜めに横切り、字東北田の東端を通り、小城藩字高田に達していた。この道は、リヤカーの車輪を片方田圃に落として通るぐらいの道幅だったという。
 香椎神社の創建は安元3年
 この集落の中心に香椎神社があり、創建は安元3年(1177)頃藤原利常が建てたとされている。祭神は神功皇后で、境内の楼門は県の重要文化財となっている。香椎神社は、久保田の産土神として、当時の歴代藩主の崇敬厚く免田の寄進や社殿の造営等を行っている。春・秋に例祭が行われ、戦前は一の鳥居までも多くの出店が並び、神社前の広場では狂言やにわか等も行われ、相当の脹わいがあった。この広場では、昭和32年に大相撲の興行があったことがある(現大島鉄工社宅附近)祭礼の当日は、早朝の花火を合図に5色の旗や鬼の面・天狗の面等を先頭に、浮立の笛や鉦・太鼓を従えた御神輿の行列が、下の宮(現博運社あたり)へと進み祭が始まる。浮立は、銭太鼓・もりゃあし・面浮立等が大字ごとに輪番を決め奉納されていたが、後継者不足で続かなくなり、昭和60年ごろから快万集落で浮立保存会を作り子ども浮立を奉納している。子どもたちは、この香椎神社の境内で野球や相撲・ビー玉・鬼ごっこなどでよく遊んでいたが、最近は境内で遊ぶ子どもたちを見かけることが少なくなってしまった。昭和61年には、香椎神社北側水路側に集落公民館や遊園地が新設されている。以前は、この集落にも鍛冶屋・石村・畳屋・薬屋・靴屋・酒屋・駄菓子屋・眼医者・饅頭屋(作一饅頭)・茶店などの小さい店が沢山あったようだ。原田樽屋は、大正元年の創業で現在も続いている。

出典:久保田町史 p.677〜680