中副

中副

■所在地佐賀市久保田町
■登録ID1448

 嘉瀬川の堤防に沿った所
 中副は、田の中央部より北で集落の中央を県道が通っている。この道路は、以前は曲がりが多く道幅も狭かったので、昭和12年頃道路の拡幅工事が行われている。人々は、この道路のことを往還と呼んだ。往還とは、人々が行き来する道のことである。天明3年(1783)の郷村帳に、徳万村の小字として中ソリがある。明治15年の「佐賀県各町村字小名取調書」に徳万村の小字として土井の古賀の記録がある。土井は堤防のことで、古賀は空閑と同様に新開地を意味する。昔の嘉瀬川は、うねうねと蛇のように曲がっており、得仏土井(現森林公園南)から麦新ヶ江と草木田の間を流れ、龍宮社の前を通って同じ中副の土井の古賀の北側を通り、新田の天神社のある八ノ坪へと流れ出ていた。この嘉瀬川の曲がりは、度々の災害で1755年頃直流の大工事が行われている。名の由来は、知る人もいないが、嘉瀬川の堤防の中に沿った所という意味であろうか。
 水難除けの神様「ひゃ−らんさん」
 中副バス停から東に50mほどいった左手に、龍宮社がある。この社は、享保7年(1722)約280年前、今の中副は中新村と称し、入江にて海深く船の難破すること数十度に及ぶ。村人集りて其の難をまぬがれ、安全を祈願するため龍宮社を安置する。地元では、「ひゃーらんさん」と呼んでいる。横尾弘さんは「以前に春のゴミ上げをした時、ひゃーらんさんの西側の堀で泥の中に船の横板があるのを見たことがある」と話されている。旧暦の3月に、桜の花が咲き誇る中お祭りがあり、集落総出で藁葺きの小屋を建て、お守り札のほかラムネやトコロテンなどが売られている。また、掛け小屋も建てられ、芝居や仁○加が行われている。川野順次さんは「ここで、以前筑紫美主子さんの佐賀仁○加を見たことがある」と話されている。町内はむろんのこと、佐賀市や芦刈など町外からも参詣者が訪れたという。現在でも、子どもの水難除けの神様として地区住民によりお祭りが続けられている。中副バス停の交差点から西へ500mほどいった所に、若宮社がある。この辺りの集落を地元では中新ヶ江といい、その西を丁永と呼ぶ。若宮社の祭神は、仁徳天皇で、台座の右側面には文政13年(1830)と刻まれている。この社のお祭りは、旧暦の4月13日の川神さん祭りと7月15日の祇園祭で、現在は祇園祭だけが引き継がれている。ここの境内は、かくれんぼや瓦けりをする子どもたちのよき遊び場だった。
 土井の古賀は船着き場だった
 久保田保育園前の交差点から東へ150mほどいった所を、土井の古賀という。古老たちは、以前はその東を「川中」といい、またその向こうの小高くなっていたところを「中でい」と呼んだ。その土井は、嘉瀬橋から大立野に通じる重要な幹線道路でもあり、道の両側には櫨の木がたくさんあったが、圃場整備でなくなっている。土井の古賀に恵比寿社がある。この社は、延享4年(1747)の建立で、嘉瀬川が直流される以前はこの辺りは土井の古賀津といって繁華な船着き場だった。この津が益々繁栄するようにと商売の神様恵比寿様を祀ってある。蘭イワさんは「子どもの頃、4月と12月にお籠りがあって、両脇に幕を張って酒宴があっていた」と話されている。昭和11年発行の佐賀県史跡名勝天然記念物調査報告書には、「土井の古賀津は、往昔は日本3大津の1つとして知られ殷賑の地なり」との記載もある。この集落から、昭和27年の秋に銭太鼓やもりやあしなどの浮立が出されている。以前のこの集落には、酒屋・駄菓子屋・八百屋・床屋・ヒヤ製造業・写真屋・祈祷師などがあった。現在は、昭和48年に開園した久保田保育園や平成5年開設の久保田児童館、また昭和48年に雇用促進のための誘致企業タイラ工業(パッキン製造)や中塚被服工場もある。

出典:久保田町史 p.688〜691