道祖神との習合

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道祖神との習合

■所在地佐賀市金立町
■登録ID1757

 <道祖神> 悪疫などをふせぐために各地の村境に造立された道祖神は、交通安全の意味を加えるとともに、人の一生を旅にたとえて、妊娠、出産、幼児守護、良縁、和合、性病の神として性格をももつようになった。男女の生殖をとおして、生産神、田の神、山の神的性格をもつなど、その発展変化は複雑である。信仰自体は古くからあったが、石造道祖神は江戸時代のものがほとんどである。
 長野・群馬方面には、男女の神が肩をならべたり抱擁した双体道祖神が集中して分布している。安曇野一帯(長野、穂高町)は、さまざまなポーズの双体道祖神が分布し、あきさせない。塞神もほぼ同じ意味をもっていたものであろう。
 民間信仰は、歴とした宗教ではなく、またその指導の立場にある人も宗教家でない場合が十の内八、九以上に上るのであるから、誤解や無智から種々の混乱の起こるのは当然であるし、時には第三者から見て解釈に苦しむこともまれではない。そこにまた、この方の研究対策の面白味もあるのだが、根が御利益と交歓を目当てにするものであるから、解決は思いのほか簡単な場合が多いようにも思われる。
 さて庚申塔が他の神仏と習合する例の中で最も多いのは、道祖神であろう。これは庚申の申と、道祖神は猿田彦だなどという俗説に由来するものかとも思われる。
 その手近な例は、東京都文京区小石川の牛天神の境内にも見られる。これは高さ134㎝、幅44.5㎝を算する棹石に、道祖神と3字を彫り、その下に三猿を浮彫りにしたものであるが、笠石まで入れた全体では212㎝ばかりとなる。猿の下に、陰刻ではあるが牝牡の雛と1羽の雛とのあるところが面白い。年号の刻んでないのは惜しいが、塔の左右両面に、寄進についた者の姓名が、十幾つか刻んであるが、そのいずれも婦人である。姓名ははなはだ浅い彫刻なので、よほど丹念に調べて見なければ判明しないのも残念である。
 この塔は、明治か大正時代にここに建立されたものらしく、『江戸名所図会』(12)にある牛天神の絵には、この位置に揚弓が措いてあるから、昔からのものでないに相違ない。
 牛天神の社殿は戦災で焼失し、その後再建された模様であるが、塔は全く無難で、依然雑草の中に立っている。ただ時に応じての変化は、笠の上の擬宝珠が、あることもあり、ないこともある。

出典:ふるさと金立p.16〜17