石井周蔵

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石井周蔵

■所在地佐賀市高木瀬町
■年代近代
■登録ID1823

 石井氏世々佐嘉藩士、周藏、天保12年を以て生る。少壯弘道館に學び規定の科程(小學、大學、論語、孟子、中庸、詩經、書經、易經、禮記、春秋)を卒ゆ。最も新陰流兵法に錬達せりと云。其系譜分明ならざれ共、藩の指南番吉村幸太夫(柳生直門)に就て學びしに非ざる歟。戊辰の役に従軍、事情行動皆石井貞興に於けると同じ。明治4年7月廢藩置縣の施行に伴ひ、佐嘉藩は佐賀縣と改まるや、佐賀縣五大區の副戸長となり、専ら民政に盡力しつつありしが、岩村高俊、新に佐賀縣權令に任ぜらるるや、熊本鎭臺兵300餘名を具して、佐嘉城を占據し、佐賀縣士族討伐に着手せり。周藏之を見て大いに怒り、直ちに戸長石井源三と謀り壯士300名を召集し、武装隊伍を編成し、征韓黨の亞者(首謀の次位)西義質を訪れ參戦の希望を陳ぶ。義質大いに喜び一等斥候を委囑す。周藏、勇躍その率ゆる所の300名を指揮し朝日山に馳せ、征西官軍總司令官陸軍少將野津鎭雄麾下の軍、大阪鎭臺歩砲兵1400餘名を轟木安良川に邀撃し大いに之を破る。爾来各所の戰闘に善戰健闘せるも武運に恵まれず、遂に敗れて官軍に捕はる。官軍の將、周藏の強剛なりしを知り、その罪重しと宣言し懲役5年に處す。出嶽後は望を現世に棄て、風月を友とし讀書に光陰を消す。時々出で、佐賀中學校の青少年に剣術を指導す。明治末年易簀。その長男、大正末期小城中學校教頭石井時太郎(昭和22年歿)、次男、大正中期佐賀中學校長千住武次郎(昭和30年頃歿)。

出典:高木瀬町史P81〜82