久富梅之允

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久富梅之允

■所在地佐賀市高木瀬町
■登録ID1825

佐嘉藩士山内某の2子、弘化2年の生なり。後、久富三之允の養嗣子となり、久富梅之允と稱す。幼にして弘道館に學び、略々經史に通じ、又兵學に達す。戊辰之役、命を受け家老鍋島平五郎の隊に屬し、奥羽先鋒總督九條道孝の麾下に入り、各所に轉戰功有り。凱旋後藩軍の一隊長なりしが、梅之允容貌凄愴にして其性、剽悍、人の畏怖する所。明治4年、公用にて馬関海峡を渡るに際し、同舟の旅人と爭ひ、怒って一刀の下に之を斬殺せる科により永蟄居を命ぜらる。明治4年7月、廢藩置縣令施行以来、漫然世相の變遷を望觀。明治7年2月、佐賀戦争に曾す、席を蹴って起ち、征韓黨一等斥候を委屬せらるゝや、憂國黨の曾軸村山長榮の軍を援く、2月22日出動、官軍陸軍少佐佐久間左馬太の率ゆる能本鎭臺を和泉(江見の西)に邀撃す。この日佐賀軍の攻撃は凄絶を極めしが、就中、久富梅之允の奮戰は敵味方共に瞠若舌を惓けりと云。三養基郡誌、佐賀戰爭の記事に日く(注 官軍の兵力 約1000人 佐賀軍の兵力も約1000人 にて兵力は互角)
《佐賀軍の主力は征韓、憂國両儻の將兵、之に鶴田有本、陣内利武の率ゆる蓮池の兵、之に合し、善戰健闘大いに力む。就中、驍勇絶倫と稱せられし久富梅之允、この日、征韓黨の將として馬を戰場に驅り、太刀を揮って叱咤奮闘するの状、勇威凛烈、官軍の將兵、避易して近づく能はざりしと云。官軍大いに敗れ、筑後川を徒渉し住吉に退却す。》
とあるも亦以而梅之允の猛勇察知し得べし。後各所に奮戰せるも、大勢非にして境原の大激戰に敗るゝや、高木瀬の自邸に歸り、佛前に禮し、養父三之允と死別の盃を交はし、三之允の介錯にて從容腹を屠って死す。享年 30歳。

出典:高木瀬町史P83〜84