土一揆合戦

土一揆合戦

■所在地佐賀市高木瀬町
■登録ID1829

 応仁3年(1469)の夏国府(小城)の地頭職千葉教胤は大村日向守家親を攻めようとして、藤津郡に至り、暴風雨の為軍船が沈没し、不慮の死をとげた。千葉家の嫡流が断絶しようとしたので、同じ氏の右京大夫胤紹の次男胤朝を後継と定めたが、その時の千葉家の執権に岩部播磨守常楽と中村弾正少弼胤明の2人があったが、2人は遂に勢力争いをするようになり、主胤朝は中村のざん言を容れ、岩部を追放することになった。岩部は太宰府の少貳政資にこうて援軍を頼んだ。政資のあっ旋で一時小康を保っていたが、岩部は府中(春日尼寺)に居て、佐賀北郷の土民をぶ育するのに力を注いでいた。
 文明元年(1469)9月9日千葉介胤朝は岩部を討つために、仁戸田近江守を大将として府中に差向けた。
然し岩部の恩顧をこうむっていた土民共は、かねての恩に報いるはこの時とばかり郷民、山伏、百姓共、10000余人集り来って、2、3回鬨の声をあげるや、山川そのために震動する程であったという。この勢いに警き仁戸田は思いがけない敵の大勢と思い込んで國府に逃げ帰った。
 然しながら、中村は様々のかん計をめぐらして、岩部に加担した土民共をなづけて岩部を府中から追出すことに成功した。岩部は手下の者を連れて一時高木村に居を構えた。岩部は胤朝の舎弟で出家の身となっている妙法院というのをにわかに還俗させて、千葉次郎胤将と名のらせて再び太宰少貳の加勢をこい主家に仇を執しようとした。政資は家人の朝日丹後守、窪甲斐守、武藤左近、江上肥前守等の将兵を差向けて岩部に加勢した。中村はこれを聞いて、一死を覚悟し、11月14日軍兵を引き連れて岩部の陣する高木村に押寄せた。土地の百姓などは正法寺の鐘を打ち鳴らし、雲霞の如くに集り来たり、遂に中村を真ん中に押し囲み所々に火を放って散々に戦った。中村は戦利あらずと見て、水上山に退いたが岩部は勝に乗じて追いかけ、山田、大願寺のあたりで中村を討果した。
 岩部はなおも大将胤将を擁して国府に押寄せ城下の町、村里を焼払ったが、主に弓を引いた報いか、最後は岩部一族30人太宰府よりの加勢の者400余人ことごとく討たれて、大将胤将は遂に金立の方へ主従僅かの人数となって落ちて行った。国府軍は勝に乗じ、府中を取りかこみ、火をかけたので由緒ある国分寺の大伽藍、大昌寺(聖武天皇の御願、行基菩薩の建立)善光寺、宝積寺、北禅寺など皆兵火にかかって炎上したという。この乱を土一揆合戦という。

出典:高木瀬町史P70〜71