佐賀県開拓農業協同組合及び池田直県知事揮毫の石碑

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佐賀県開拓農業協同組合及び池田直県知事揮毫の石碑

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■所在地佐賀市若宮二丁目10番20号
■年代現代
■登録ID1859

1、開拓農業の発足
○緊急開拓事業は、第二次大戦後の混乱した世相と危機に瀕した国民経済の中で、食料増産と民生安定という、極めて緊急度の高い国家的な要請を背景として、昭和20年暮れに始められた。
○昭和20年秋「緊急開拓事業実施要領」が閣議決定され、戦後の開拓事業がスタートし、昭和48年開拓行政に終止符が打たれ、一般農政へと移行されるまで、約30年間国家プロジェクトとして国・県・地方・開拓者及び開拓農協等が一体となって推進された。
○戦後の開拓事業は、敗戦による様々な混乱の中で、緊急対策として着手された。
2、開拓農協の発足と経緯
○開拓農民の協同組織・・・最初は、国・県の指示等を受け入れる開拓者側の窓口が必要になった。
 最初の時期は、開拓団長による統率が行われた。
●30~40戸の開拓団長・・・団員を指揮監督しながらまとめる。
●公募が行われる・・・月報100円、海外の経験者等応募者多数が殺到した。
●10名ほどを採用。「○○開拓団」とよび、大小の任意組織が作られた。
 その後、国の指導で「開拓農業協同組合」に統一された。
 これが、開拓者の相互扶助組織となり、対外的には折衝の窓口となった。
○開拓農協の設立
●昭和22年12月・・・農協法の施行に伴い、「開拓農協」の設立が急速に進められ、
●昭和22年末・・・県下で58を数えた。(1単協の平均の規模は、10~20戸)
 開拓農協組合も、激しい時代の変遷の中で、開拓組合農家と共に歩んだ
●昭和23年・・・県下57の開拓農協を背景に、「県連合会」が設立された。
●昭和28年・・・県下の開拓農協・・・85を数える。
            *県下の入植戸数は、・・・・・1,800戸
            *一組合平均の加入者数・・・・  21戸  
            *団結力、連帯意識は抜群、組織の零細性が弱点
○開拓農協の合併
●昭和30年・・・国は、開拓農協の整理統合方針を打ち出す。
●昭和29年~昭和33年の5カ年間(第一期の整理統合)
  *昭和28年の85農協 → 昭和33年の5カ年間で、51農協に統合
●合同事務所の設置
 昭和35年~昭和40年・・・国の方針で合同事務所の設置が進められ、県下に11の合同事務所が
 設置される
●昭和44年の「県開拓農協」の規模・・・組合員数 914、・職員数 25人
●昭和49年・・・開拓行政の終了と一般農政への移行に伴い、「佐賀県開拓農業協同組合」が県
 等の行政及び他の農協の一切の業務を引き継ぎ、一本化され現在に至る。
3、若宮地区への組合移転と石碑建立
 昭和52年11月、「佐賀県開拓農業協同組合」は、佐賀市松原町から現在地に事務所移転された。
 昭和53年11月、事務所移転を記念に、開拓農業の歴史を永く後世に伝えるため事務所前に、二基の大きな石碑が建立された。
  ①佐賀県知事、池田直氏揮毫の「拓魂」(高さ1.45メートルの自然石)
  ②佐賀県副知事 宮崎善吾氏揮毫の「畜魂碑」(高さ2.25メートルの自然石)

出典:現地取材及び「佐賀県開拓農業30年史」より。