神野今昔物語

神野今昔物語

■所在地佐賀市神野
■登録ID1927

 足利時代の古文書には、掘江神社は、高木村と出ている。高木村の潟崎の洲にあった芦の生えた野を掘江神社の神領に寄付し、この緑由で神野という地名が生まれたという説もある。
 降って徳川時代の元禄の頃には、神野村は「中佐嘉郷」と「与賀上郷」とに分かれ、次のように区分されていた。
  中佐嘉郷 神野村、大財村、三溝村、愛敬島村、草場村
  与賀上郷 高岸村、多布施村
 更に降って文化14年(1817)の記録によれば、
  中佐嘉郷 大財、愛敬島、三溝村、草場村、神野村、東渕村、下渕、東中野、西中野、土井村、藤木
  与賀上郷 多布施東分、多布施下村、中折村、天祐寺町、本庄東分村、本庄西分村、厘外東分村、厘外西分村、上飯盛、鹿子上村、鹿子下村、新村、末次東分村、末次西分村
 明治維新となり、神野、多布施、牛島、大財の各村を区域として戸町役場を設け、明治22年(1889年)4月1日市町村制実施とともに、中佐嘉郷、与賀上郷の傍線の村が神野村となり、神野村役場を置いて、神野、多布施、大財の三大字に分けられた。そして、大正11年(1922年)10月1日に佐賀市に合併された。
 合併と同時に、大字神野は神野町に、大字多布施は上多布施町に、大字大財は大財町となった。この3つの町にふくまれた区は次の通りである。
 神野町…西神野、東神野、三溝、草場、西通り、新家、平島、愛敬島
 上多布施町…大島、高岸、中折
 大財町…大財、六反田
 この三個町の戸数は、1,026戸、人口は、7,971人であった。合併の祝賀会は、11月18、9の両日盛大に行われ、(昭和48年版佐賀市史上巻)神野小学校の児童も旗行列に参加した。
 今は、大財、愛敬島(愛敬町)、平島(天神)、大島(多布施1、2丁目)、高岸(多布施3丁目)、中折(中折町、天祐)は、他校区になっているが、この地区をふくめた旧神野校区の去にし日をふりかえってみよう。
 神野村が、なぜ佐賀市に合併されるようになったか、今考えてみると見当もつかないだろうが、合併の頃は、農家が多く、町の形をしていたのは、紡績通り、西通り、堀江通り、三溝の今の263号線沿いくらいのものであった。
 明治維新以後の神野村をみると、幕末には高岸に精錬方が置かれ、明治24年には長崎線が佐賀まで開通して、愛敬島に佐賀駅ができ、草場には農事試験場、緑小路には県立佐賀農学校が開校されて、その後、佐賀紡績会社、九州麻糸会社、日本電気分工場、谷口鉄工分場、佐賀瓦斯会社製造場、川上軌道会社などがつくられ、ことに明治の末高木瀬村に歩兵第55連隊が設立されるや同兵営と佐賀市をつなぐ道路(今の263号線)が神野村を貫通し、村発展の可能性が大いに出て来た。また、上水道敷設、道路の改修などが必要になって来、佐賀市には学童の増加による小学校の新築敷地などの問題があり、大正8年頃から神野村と佐賀市の有志の間に合併のことが話題になり、大正11年10月1日の合併となった。(昭和48年版佐賀市史上巻による)

出典:神野p.163〜164(神野小学校100周年記念誌)