高太郎

高太郎

■所在地佐賀市西与賀町
■年代中世
■登録ID200

足利時代大宰少弐資嗣が佐賀に存りし頃、中国の豪雄大内徳雄なる人物が飯盛城に在住した。飯盛城は本庄村上飯盛の常照院の地であった。
時に事情あって資嗣がこれを攻めた。その時、資嗣は本庄、与賀、川副方面の郷士をつれて夜襲をかけ飯盛城を陥落させた。大内徳雄は飯盛の西方から上松浦を経て筑前に逃れた。その時軍は退却しつつ高太郎に来て潰滅した。その追撃戦に大いに功績をたてたのが小太郎丸、高太郎丸の両名であった。これによりこの地を平定し豪族として勢いを得た。現在の高太郎は領主の名をとって字名とした。
文化14年(1817)の郷村帳によれば、秋丸小路、中ノ小路、舟津小路、蔵床小路、野口小路、唐津村の各集落からなる、かなり広範囲の村であった。

出典:西与賀の歴史とその周辺p8