浮立

浮立

■所在地佐賀市川副町
■登録ID2045

 町内における芸能は浮立大神楽、俗にいう浮立の伝承である。かつては「鹿江の浮立が行かんば、お下りのでけん」と言われていた浮立の伝承も姿を消し、それが現存するのは大詫間と犬井道だけになった。浮立は、大詫間の松枝神社で催される10月22日の供日、犬井道の海童神社(じぃおうさん)で催される10月23、24日の供日に奉納されている。昔は早津江、咾分、小々森、波佐古などにも伝承されていた。
 『広報かわそえ』 (NO246 昭和51年9月25日発行)に、竹下日出次氏は〈浮立大神楽とは 上〉と題して、「面浮立の起源については、伝えられるところによれば、享禄3年当時、佐賀の豪族龍造寺家兼が大宰少弐冬尚をたすけ、中国大門勢の軍を現在の佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手村に迎えた時に、危うく破られんとしたが、その折、当時佐賀本庄村の郷士鍋島平右衛門清久がおのおの赤熊の面をかぶった一族郎党百餘騎を指揮し、敵陣に乱入して奮戦、これを撃退した。その勝ち祝いの踊りが面浮立の始まりだ。」と、「浮立大神楽玄蓄流儀口傅書」について述べている。しかし、これは伝説として受けとるべきである。後者も口伝として受けとるべきである。なぜならば三隅治雄氏が述べているように、「風流という語の意味は時代によって流動があり、もとは中国から来た語でフリュウと発音し、みやびやかと訓じていたが、しだいにフリュウと訛って、意匠をほどこした作り物の意に解するようになった。ところがそういう作り物を祗園会などの祭礼に出すことから、祭りに出る山・鉾の類を風流といい、さらに衆の派手な仮面や装束をもそういうようになり、つぎには風流を身につけた祭りの練り衆、踊り子たちのする動作−囃子に乗って大道を練る道行きぶりや、辻・門口・庭で行う踊りなど−をも風流の語で呼ぶようになった。」であるからだ。佐賀の場合はいつ頃からかわからないが、〈浮立〉と当てている。
 浮立=風流が、太鼓・鉦・笛を打ち鳴らすのは、その昔が御霊を送るのにいちばん効果があると古代から信じられていた。ウチコが太鼓や鉦を打ち鳴らし、足を跳躍させ災厄−悪霊を追い払うのである。
 大詫間の馬場源六氏(明治28・10・20生)からの聞き取りによると、浮立は豊作になるようにとか、旱魃浮立を「沖のオンガンサン」(沖ノ島)や松枝神社境内で打った。干拓堤防等で旱魃浮立を3日間も打ったことがあるということだった。
また鹿江の松井袈裟六(明治27・1・30生)・八木鹿市(明治27・11・2生)北村善吉(明治29・6・27生)の各氏からの聞き取りによると、浮立奉納の翌日、下ノ宮で〈おのこい〉と言って、相撲が催された。それは「じぃおうさん(海童神社)が踊い好かっさん。相撲じゃなからんば。相撲せじ踊いすっぎ、雨の降らす。相撲すっぎ、雨のあかっ」とか、「鹿江の浮立が行かんと雨が降らん、雨乞いにならん」といって、金立山のお下りに、諸富町の搦まで浮立が出たということだった。
 こういうことからも、町内の浮立は旱魃浮立であり、また雨乞い浮立であったといえる。言い換えるならば、春秋の祭りに浮立を奉納することは、その年の豊作や大漁を予祝する行事であった。
 大詫間の浮立は、上ノ小路・中ノ小路・下ノ小路の各集落を単位として3年に1回持ち回りで毎年松枝神社に奉納されていたが、年々若者が少なくなり、昭和48年頃から集落回りが出来なくなって、大詫間全域の青年で毎年奉納している。
 また犬井道の場合は、犬井道浮立(平田分・恵北・寺南・南小路・呉服)と田中浮立(野村・倉床・立小路・田中)に分かれており、毎年交代で海童神社に奉納されている。
 1 浮立の練習
 大詫間の浮立の練習は、昔は盆過ぎから始められた。毎晩8時頃から11時頃まで、遅いときには午前1時頃まで練習をした。笛ふきは笛ふきの上手な先輩(師匠という)、鉦打ちは鉦打ちの上手な先輩の家へ3〜5人の仲間と行き、そこの庭先で習う。笛は師匠が指で押えながら吹くのを見て習い、鉦打ちや舞い方は師匠の手を見て習う。
 祭りから2週間前に、世話役がウチコに鉦渡しをした。総練習は個人の庭先の広いところや、公民館前の広場で行う。太鼓や鉦は松枝神社に保管されている。
 犬井道の浮立の練習は、田植が終わり7月15日の祗園ごろから始められていたが、最近では盆過ぎから始めており、毎晩8時頃から11時過ぎまで練習をする。大詫間と同じように師匠について習う。
 祭りから2週間前に、古老の鉦役(5、6人)から太鼓・鉦がウチコに渡されていた。ところが、昭和初めの頃から鉦役は廃止になり、青年団にその役は譲られた。太鼓や鉦は犬井道分が真照寺(寺南)に、田中分は明円寺(野村)にそれぞれ保管されていたが、最近になって海童神社に預けられている。
 総練習は、戦前には中手の取り入れ後に田んぼや寺に集まって行われていたが、戦後は小学校のグラウンドに集まって、手直しをしてもらっている。
  2 浮立の役割
 浮立の役割は犬井道も大詫間もだいたい同じで、次のとおりである。また演技者の服装も昔は、金紗の着物に、金紗の帯をし、縮緬の飾りをして洒落ごろだった、と伝えられているが、現在では着物もそろいの浴衣に統一され、簡素化されている。
 ○テンチクミャー −テンツキという冠をかぶり、腰裏にゴザをさげ、白足袋に草鞋ばき。
 ○大太鼓 −古老。セルの着物姿。
 ○和讃(小太鼓) −モリャーシともいう。花笠をかぶり、手ぎんを付け、黒脚袢に草鞋ばき。
 ○鉦打ち −シャグマをかぶり、白の股引をはき、尻をからげる。黒足袋に草鞋ばき。
 ○笛ふき −花笠をかぶり、羽織姿。黒足袋に高下駄ばき。
 ○奉行 −陳笠をかぶり、羽織姿。黒足袋に草鞋ばき
  「注」現在、大詫間の鉦打ちは地下足袋ばき。奉行は草履ばきで、陣笠はかぶっていない。
 奉行は1本の棒を持ち囃子をしないと鉦の拍子が合わないので、その棒を地面につきながら拍子をとる。またウチコや笛方が時間を守らなかったリ、風紀を乱すような行動をすると、注意を与えたりする。
 浮立の役割にそれぞれの人数は定まっていないが、昭和52年10月に松枝神社に奉納された大詫間の浮立は、テンチクミャー1人、モリャーシ20人、鉦打ち19人、笛ふき14人、奉行12人などである。
 3 浮立集団の行動範囲
 大詫間の浮立集団の行動をみると、祭りの前日に当番集落で広場を設けて(以前は稲を早く刈っていたが、現在では公民館前の広場などを利用する)、そこに南か東向きの「お仮の宮(おかい屋)」をつくる。
 当日は午前5時ごろ松枝神社にウチコが集まり、〈道行き〉で神前へ打ち込む。境内へ入ると、本ばやし(玄蕃一流)に合わせてテンチクミャーが舞い、浮立が奉納される。
 浮立は〈道ばやし〉を打ちながら「お下り」行列にお供する。各家の門には花笠のご神燈を立てて、御神輿行列を迎える。「お仮の宮」へ着くと、御神輿を置き祭礼が行われる。祭礼を終わると、「お上り」につき、村中を回り松枝神社へ向かう。途中村人は御神輿の下をくぐる。(御神輿をくぐると、災厄からのがれるという。)
 松枝神社へ着くと、境内で〈本ばやし・つくい浮立〉などの浮立が奉納され、あい間にはホンバン(謡曲の一部)も謡われる。神社の祭典が済むと、浮立は下ノ宮」で奉納し、あとは学校や漁港、区長の家などで浮立を打ち回る。
 犬井道の浮立集団の行動は、祭りの朝5時ごろ、海童神社境内で〈本ばやし三番〉を舞い、御神輿に御神体をうつす。それからへ〈道ばやし〉をしながら御神輿行列で「下ノ宮」へ行く。そこで浮立を奉納し、海童神社へ戻る。最近は「下ノ宮」から、鹿江の今古賀神社へ「お下り」の行列をする。今古賀神社で浮立を奉納したあと、海童神社へ「お上り」の行列。子供の安全を祈り、途中で稚児がお供し、稚児の行列が続く。(この地区でも、行列の御神輿をくぐる。)
 海童神社へ御神輿が着くと、その門前で「トイエガカリ」といって、本ばやしを打つ。境内では、さらに〈本ばやし・つくい浮立〉を奉納する。本ばやし(玄蕃一流)を打つときには、テンチクミャーが舞い、ホンバンを謡い(「うしろまき」という)興をそえる。あとは村回りをし、有志の家などで浮立を打ち歩く。
  4 テンチクミャー
 浮立の主役であり、祭主または斎主の役をつとめる重大な役割で、天衝という冠(かぶりもの)をかぶり、神前で氏子の代表として神に拝んだり、舞を舞ったり、太鼓を打ったりする舞人である。
 この舞人の役は一朝一夕にして身につくものではないので、世襲制ではなかったかと指摘する人もある。(『神と仏の民俗学』飯田一郎著)
 テンチクミャーの三日月の形は、羽の代わりで浜辺に鶴が降りてきて、鶴が舞っている姿(舞鶴)であると伝承している。またテンチクミャーは、村に1、2人の特定な人が演技者となる。テンチクミャーが腰にゴザを付けているのは、「舞いそこなうと、ゴザの上で腹切って死なんばならん」と伝承している。
 テンチクミャーの舞いを見て、古老は「今のうが太陽さんに祈り、今のうがお月さんに祈り、今のうが地の神さんに祈っている」と言っていることからも、神の前での祈りであることがわかる。
 大詫間の江頭輝史氏(大正2・10・7生)の話によると、「テンチクミャーは、本ばやしに合わせて、太鼓の揆を握り舞を舞う。まず神前に端座し、参拝したあと、三方立てを終え、ウチコの前を舞いながら3回まわる。浮立に関するすべての演技者は、それぞれ定められた所作をする。笛の曲が終わるころ、テンチクミャーは太鼓に近づいて来て、打ち止めの太鼓を打つ。すべての演技者はその動作を終えて止める」という。
  「注」 『日本民俗学大系9』昭和33年8月刊(平凡社)

出典:川副町誌P.919〜P.926