印鑰社 | さがの歴史・文化お宝帳

印鑰社

所在地 佐賀市大和町大字尼寺1528
登録ID 2100

出典資料から記載

尼寺にある印鑰社はもともと奈良~平安時代(8世紀前半-10世紀前半頃)には肥前国府の印と鑰を保管した所である。語音はインヤクと読むが多くは他国でもインニャクと呼ばれ、この印鑰は国印と国府倉庫のかぎを意味しており、駅鈴などと共に国司が国務を執行するに当たって最も重要なものとされていたのである。平安時代の後半頃、各地で、この印と鑰が神格化し、御神体となっていった。後世になってからこの御神体として他の神を祭るようになり、現在印鑰杜の御神体は大己貴神=大国主命である。
 「和名抄」によれば鑰はカトノカギ(門のかぎ)であるから、府庫のかぎというより府門のかぎと解すべきであろう。府門のかぎを掌握することは政治的又は軍事的な国府の権威を意味し、皇位の継承における三種の神器のように古代的権威を継承したものと考えられる。
 国司の任期は普通4か年であるが、就任に当たって新旧国司の引継ぎが行われている。「国務条々」によると印鑰引継ぎの儀式は吉日を選び行われていた。先ず前任国司が新任国司の官符(辞令)を確認してから介又は目の位にある官人が印とかぎを渡す事になり、新任国司が国司館に入って官人等が着席した後、かぎ取り書生がかぎを新国司に進上する事になっている。
 「時範記」では惣社で官符を官人に示して印を受取り、次にかぎを受取って、印は印櫃に納めて封をしその後に国庁に入っている。時期的に直接前任者から受領する事が出来なかった場合であろう。その他引継ぎには引継書類、備品、官舎など挙げられているが、その中には国印、倉印、文印、駅鈴、鉤匙(かぎの形のかぎ)が記されている例もある。他国の例では、国司の赴任を在地の官人達が国境まで出迎に行く「境迎」の行事もある。
官印の使用も11世紀末から12世紀初めまでで、以後は捺印を省く書式に変わり、国府の権威衰退のころは印鑰社は単なる祭祀の対象となっている。印鑰社は国府関係以外にも存在している。それは郡家、郡倉、軍団、駅家等の古代施設に結び付けて考える学者もいるようであるが、わが大和町五領の印鑰社は同地が宇佐八幡宮の神領で、御領が五領に転じ、宮米の倉庫と結び付けられているが、あるいは駄市川原付近には佐嘉駅が想定されるし、又、佐嘉郡家(郡司の家)も同地付近と考えられるので、これらとの関係も考えられる。(木下良氏の印鑰社について参照)
 駄市川原岩崎木工場の川東一帯の地名が「井釜」である。「井釜」は「居構」で玄関を意味するといわれ、井釜の南を「じょうの内」といい、もと石垣の跡もあったらしく、「じょう」は城に通じるとみて、ここに郡家があったのではないかとも想定される。
 官の文書に押す印と貢租の物を入れる倉庫のかぎとは官庁と別な場所に保管するのが通例で、その所在地を印鑰の敷地とし、租税免除地として扱われていた。尼寺の印鑰社は南北朝末期の永徳2年〈弘和2年〉(1382)8月、鑰山城主鑰尼信濃守藤原季高が建立したものであるが、文明2年(1469)千葉氏の内乱で国府や国分寺と共に兵火にあい焼失した。
 寛政元年(1789)3月、破損した社殿を成富左兵大蔵種模が村内氏子と共に再建した。
 明治元年(1869)氏子寄進によって拝殿を修築した。ここの鳥居に左の文字が刻まれている。
 肥之前州佐嘉国府印鑰大明神御宝前□□河上社印鑰崇之於国府年久□□  

 
出典:大和町史P92〜94

地図

関連情報

総合検索
サイト内検索

ご利用案内
comodo ssl