甘南比神社 | さがの歴史・文化お宝帳

甘南比神社

所在地 佐賀市大和町大字久池井3651
登録ID 2101

出典資料から記載

春日高城寺の東より柑橘園の中を舗装された農道が急カーブを描いて頂上近くまで登っている。頂上は僅かな平地が雑樹に覆われ、はるかに佐賀平野が展開している。ここが標高235mの甘南備山で普通、城山と呼ばれている。今では東南面は頂上付近までほとんど開墾されて柑橘園となって昔の面影は見られない。甘南備山の名は久米邦武博士によれば、この峯に国司甘南備真人浄野や子の高直のいた所であるが、それよりも古代神事にちなんだことから名付けられたものという。
 甘南備は神南備(南備は森の意)とも書かれ「神の在す森」の意で、神籬をたてその内部を神座として祀ったもので、峯は西南より北東にのび、昔は三段階をなし、上段は約10坪(33㎡)、中段は約30坪(100㎡)、下段は150坪(500㎡)くらいの平地で、共に樹木が繁茂し、同峯の中腹には自然石をめぐらしていた。上段樹林の中央に小さな石祠、富士社がまつられ、毎年秋には祭礼をとり行い、各豪族がことごとく集まり、お初穂を供え、新穀の食い初めをしていた。そして国造はその麓に住居を構えていたらしく、春日西方に長者屋敷の地名があるのはその住居跡ではないだろうか(久米邦武氏考証)。秋の例祭が今は1月15日の春祭に変わっている。
 高木氏の始祖中納言文時が一條天皇の御代(987-1011)甘南備城に居住し、その末裔高木宗家が文治2年(1186)再びここの城主として城砦を築き肥前国を風靡していた。その後裔家直のとき、菊池武安に攻められ、甘南備城は陥落した。別名城山というのは城がここに築かれていたことによるので、その城址は判然としないが伝承によると山頂に池の跡があって、昔城兵の用水場だったという。この山の南麓に甘南比社がある。祭神は天児屋根命である。創建の年月ははっきりしない。貞観12年(870)のころ、博多沖に新羅の賊船が出没した時、特に勅使を遣わして幣白告文を捧げ「授肥前国正六位甘南比神社従五位下」の記録があり、当時いかに国家崇敬の念が厚かったかがわかる。その告文は(原文万葉仮名の文)
 「天皇が詔旨と甘南備神の広前に申し給へと申さく、去歳の六月より太宰府度々申すらく、新羅の賊船二艘筑前の国の那珂の郡の荒津に来りて豊前の国の貢船の絹錦を掠め奮ひて退けたり。又庁の楼の兵庫等の上に大島の恠有るに依りてトひ求むるに隣国の兵革の事あるべしとトへ言上たり。件の事も思ほしあつかひ憂へ歎きおはします間に又言上すらく、新羅の賊冠兵を調へ船を装りて我朝の地を掠め侵しにこむとすと皇神の託宣せり。又位に叙られむと願ふと言上たり。此に依りて従五位下の御位記に礼代幣帛を副捧げしめて奉出給ふ。今も国家をねもごろに助守りまして此の如きの災難とあるべきことをばしからざるに警しめ悟しおし鎮めまして弥高弥広に栄飾崇奉らむと申給ふと宣り給ふ。天皇が詞旨を申す。」となっており、甘南備峯を春日山というのは、当山は春日大明神垂跡の霊地で、「依って山号を春日山と称す」と春日山高城寺記にある。
 甘南比神社は王朝時代まで佐嘉第一の宮であったが、時勢の推移と共に河上神社が盛んになり甘南比社は衰えていった。中世以降、度重なる戦乱の災厄にあって消滅し、その跡すら認められなくなったが、維新後村内有志再興を計り、今泉蟹守翁の助力を得て現地に再興された。明治6年(1873)春日村社に列せられ、大正9年(1920)出羽八幡神社に合祀し、土地の人は「八幡さん」と呼んでいる。
出典:大和町史P94〜98

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