光明寺(廃寺)

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光明寺(廃寺)

■所在地佐賀市大和町今山
■年代中世
■登録ID2114

 大和町今山の北、男女山南のふもとに浄土宗光明寺跡がある。鎌倉3代執権北條泰時の子孫が仏門に入り、筑後国(福岡県)善導浄寺の開山聖光上人の弟子となって修行し「正空」と号してこの地に光明寺を建てたのが始まりとされ、建治年間(1275~1278)の昔である。
 正空上人は性柔和で頭脳明晰、ついに一宗の奥義を究めた名僧で、その徳を慕う者数多かったという。光明寺の堂宇は「大廈宝塔の備え厳然として」とあるから大規模な建築だったのであろう。浄土宗寺院調によると、寺領は田畑屋敷五反八畝十六歩、地米八斗三升八合となっている。現存している聖光寺は光明寺の隠居寺で外に末寺として金蓮院、福萬院、宗明院、三浄寺、平等寺、西念寺等が記録に残り、今は皆廃寺になっているが、昔は今山、横馬場一帯は仏法繁栄の霊地であった。それからおよそ300年を経た元亀元年(1570)今山合戦の時、大友の部下9人が当寺本堂で自害したが、その時彼等一党の放火で光明寺はもちろん末寺に至るまで焼失した。それから10余年後乃誉上人という有徳の僧がこの地に寺を再興し在住すること数年、のち還俗して堤又二郎と名乗り、太閤秀吉の朝鮮役の戦陣に加わり、戦功をたてた事で光明寺の地50余石を与えられている。こうして栄枯盛衰の過程を経て寛文のころ、臨済宗の僧仏岸和尚が霊場の荒廃をなげいて信徒と共に荒地を開きお寺を建て、観自在尊を本尊として安置し布教に勤め、併せて北方の峰に弁財天を祭った。
仏岸はもともと臨済の僧であったが、天性浄土の教義に帰依していた名僧である。和尚が如意宝珠経を読経していると白蛇が現われ、又法華経を読経していると机上に不思議な虫が出たりあるいは白狐が出て来て経文に耳を傾けたという伝説がある。
 後年長崎の福済寺管主として20余年を過し、享保14年(1729)86才で死んだ。分骨して当山に葬り石塔を建て碑文に「當山中興仏岸圓老和尚、享保十四年己酉天十一月八日」とあり、庵室の西方山中に建てた。(聖光寺古文書による)  〔享保14年(1729)〕

出典:大和町史P.186〜187

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