永明寺 | さがの歴史・文化お宝帳

永明寺

所在地 佐賀市大和町北原
年代 近世
登録ID 2118

出典資料から記載

 深江信渓は当時の社会全般が浮薄になって、敬神崇祖の精神が衰えているのを嘆き、神仏信仰と忠孝の精神を盛んにしようとして、北原村(現在北原団地)にある法華山永明寺という荒れ果てた寺の再興を計り、山林一町(1ha)余を寄付して成就した。更に寛文2年(1662)43才の時、大木英鉄、真阿上人らと話し合って、楠公父子の尊像を佐賀城下に奉祀しようと、神社創立の趣意書を作り、奉加帳を回して藩内上下の賛同を得ようとした。この趣意書は
 『恐れながら沙彌信渓、謹み申して申さく、それがし人身に生を受け、君臣の交りをなすといえども、不浄垢悪(あかのように汚れ)の心にして忠孝の誠を失う。天下万民、僧、釈、道にあらざれば、身を立て世を渡る事あたわず。この3つの道共に忠孝を本とす。ほぼこの理を尽すといえども業因深くいたずらに43年の春秋を送る。−中略−願わくは日本無双の名将、忠孝の勇士なれば、楠河内守正成公、同帯刀正行の面影を作りて、予が草庵に崇め、心あらん朋友等に拝ませて、人の心に忠孝を深くせしめん事を。大名たり釈門たらん人はこの両将のために塔をも建て寺をも作り、かつは亡魂を弔い、かつは仏法王法の助護ともなすべきに、さばかりの名将のため寺をも建てず、堂も作らず、誦経念仏する人もなく、空しく300余年を送る。浅ましきにあらずや。それがし旦暮(朝夕)にこれを思うといえども、財なく徳なきの隠れ人、更に言葉に出すべきにもあらず。心を同じゅうするの僧俗にようやくこの事を語る。在家には大木英鉄という者、法師には真阿上人のみ、この両将を重んじて絵にかき文字に書き、その跡を問い深く忠孝を貴ばん。天下広ければ寺をも建て、影を作りて崇むる人有るまじきにもあらざれども、摂津兵庫塚を見れば、草木を上に植えたるのみなり。浅ましきかな。世に忠実の人なく孝真の人なきが故に、我らの如き不義のやから世に多きものなるにや、これによりそれがしいやしくも両公の尊影を作り、父母主君の名号と共にこの影を拝み、燈花の一閑となさん−以下略−』
 と赤誠あふれる文で書かれている。この切々たる心は藩主光茂を動かし、世子綱茂、蓮池藩主直澄、小城藩主直能を初め230余人の賛同署名を得た。そこで京都に上り仏師法橋宗南に依頼して、楠公父子桜井駅訣別の甲冑尊像を作り厨子に入れて佐賀に持ち帰った。
  信渓はこの尊像を寛文3年(1663)5月25日北原村永明寺に安置し自分で祭事を営みその霊を慰めると共に、人々にその美徳を教えた。これは我国において、おおやけに楠公をまつった最初であり、元禄5年(1692)徳川光圀が湊川(神戸)に建てた「鳴呼忠臣楠氏之墓」の碑よりも29年前のことであった。
 その後信渓は亡くなり、この尊像は行方不明になっていたが、文化13年(1816)の春佐賀市本庄町の鍋島家菩提寺である高伝寺の楼上に放置されていたものを発見し修復した。嘉永3年(1850)5月になって、枝吉経種(神陽)は弟子の江藤新平・大隈重信・大木喬任・副島種臣らと計って、義祭同盟を組織し、この会によって同年5月24日、尊像を佐賀市本庄町の梅林庵に安置して祀った。しかし、安政元年(1854)には、佐賀市白山町の八幡神社境内に新しく楠公社を造りここに祀った。これが現在の楠公社であり、この尊像が祭神である。
 北原の永明寺は今は廃寺となり、寺地は大和団地となっている。信渓は晩年を通天寺で過したが、天和2年(1682)8月5日、63才をもってこの地で死んだ。
法名「安玄正機上座」と称し、墓は松瀬井手の通天寺にある。
出典:大和町史P.278〜281

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