湛然和尚と華蔵庵 | さがの歴史・文化お宝帳

湛然和尚と華蔵庵

所在地 佐賀市大和町仲
年代 近世
登録ID 2119

出典資料から記載

 湛然和尚は鍋島家の菩提寺である高伝寺の第11世の住職であった。寛文のころ城内中の館円蔵院の住職村了和尚は、かねがねの希望として、円蔵院は龍造寺家純代々の菩提寺だから藩内12か寺の列に加えてもらうように願っていた。ところが思うように行かないので、藩主光茂が本庄の慶誾寺へ参詣した機会をとらえて、光茂が礼拝する時仏壇の下から直訴した。光茂は怒って八戸の天福院で寛文9年(1669)2月2日死罪にすることになった。
湛然和尚はこのことを聞いて不びんに思い、助命を嘆願したが聞入れられなかったので、その場から直ちに鍋島新庄の東善寺に入った。これを知った光茂は上使をもって寺に帰ることを勧めたがこれを退け、逆に出国を願うこと数回にも及んだが許されなかった。そこで湛然和尚は出国脱出を図り東善寺を出て三反田の地蔵橋辺りまで来た時、藩の捜索隊に追い付かれ押し問答のすえ、使者は申し開きのために切腹した。そのころ井手の通天寺にいた深江信渓の慰留もあって、一先ずこの通天寺で暮すことになった。その後再三にわたって上使が来て光茂の上意を伝えたので、湛然もようやくこの地に留まることを承諾した。光茂は和尚のために菅の谷・熊の峰の山林を開墾し、薪炭料として山林4町5反(4.5ha)、寺地7反余(70a)、4間に5間の御堂、庫裡、書院を建て、食料として10石を贈った。
これが華蔵庵である。和尚はここを訪れる人があれば大慈悲の道を諭し、人去れば座禅三昧に行雲流水、風月を楽しむなどして十有一年の禁足に近い生活をし、延宝8年(1680)11月10日(新暦12月30日)死去した。大和町松瀬字仲の華蔵庵跡にその墓がある。
 その後堂宇も消滅し、境内は雑木繁茂し荒廃して、傑僧湛然の名も年と共に忘れられようとしているのを惜しみ、昭和9年3月福田慶四郎、古川虎雄、上野夘三、木塚嘉一郎の四氏が、同志を募って境内を整理し「湛然和尚穏棲之庵跡」と刻記し、西村謙三氏の碑文を刻んだ五輪塔を建てた。又通天寺にある和尚の木像を修理するなど、和尚の事蹟をしのぶと共に世人に対する暁鐘とした。今は杉林の中に五輪塔を見るという有様であり、この杉林を通り抜けるとやや小高い場所に苔むした湛然和尚外代々の墓が並んでいる。山本常朝はこの湛然和尚の影響を受けたので、葉隠の中には湛然の言行が多く記してあり、「出家は慈悲を表にして内にあくまで勇気を貯う、然らざれば仏道の成就出来ざるものなり。武士は勇気を表に、内心には腹の破るるほど大慈悲を持たざれば家業は立たざるなり。よって出家は武士について勇気を求め、武士は出家によって慈悲を求むるものなり」
 「武士たるものは、忠と孝とを片荷にし、勇気と慈悲とを片荷にして二六時中肩の割込むほど荷うてさへおれば侍は立つなり」「朝夕の礼拝、行住坐臥、殿様殿様と唱うべし」
 「慈悲というものは、運を育つる母のようなものなり」
 などといっている。こうした厳しい言葉の内に限りなく温かなものが秘められているところが葉隠精神、鍋島武士道の特色ともいうべきものであり、これはこの湛然和尚の教えを受け継いだものと言われている。松梅の井手に近い上一区(柚木川)に地蔵尊があるが、これは湛然を追って来た使者で切腹した者を祀ったものだと伝えられている。この地蔵尊は石室内に祀られ、その後壁に
  願主沙門月海是心    寛文十一年八月彼岸日建
 とあり、悲劇後2年目に当たる。月海是心は通天庵3代の和尚でその墓は通天寺墓地にある。地蔵尊の後方にある自然石の墓は使者の墓だと伝えられ、それは最初2基であったが、1基は明治42年(1909)の山潮で流失し、今は1基のみ残っている。このことから切腹した者は2名であったろうと想像される。
出典:大和町史P.284〜287かたりべの里鹿子P.68本荘の歴史P.80

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