常立寺

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■所在地佐賀市大和町大字久池井2144北原
■年代中世
■登録ID2131

 尼寺より北に徒歩10分、北原地区の中程に真宗の一寺がある。浄土真宗本願寺派慈光山常立寺である。室町末期の創建で隆円教師の開基である。寺伝によると、隆円教師はもと武士の出で一族の霊を弔うためこの地に建てたという。一族とは太宰少弐のことで、更に300年をさかのぼる源頼朝の時、鎮西奉行として軍事を司った藤原資頼が先祖に当たる。資頼は太宰少弐(太宰府の次官)に任ぜられ、後にこの官名を姓としたものである。過去帳には明応6年(1497)4月19日太宰少弐政資(墓は多久市多久町専称寺)。同高経、天文4年(1535)少弐資元(同前)、元亀4年(1573)太宰彦六郎政経、文禄3年(1594)太宰彦右ヱ門久経とその一族が続いて祀られている。この彦右ヱ門久経一族から坂本並びに平原姓を名乗った者が出ている。常立寺の住職は代々太宰姓を名乗っているが、太宰彦六郎政経が祖であるかは未詳である。
 少弐氏は鎌倉時代から鎮西奉行を勤めていたが、九州探題に非協力だったのでついに応永3年(1396)、少弐貞頼は探題渋川満頼の将大内氏により亡ぼされた。これ以来少弐一統は盛衰興亡の歴史を繰返していった。文明14年(1482)、少弐政資は神埼郡内の地20町を河上神社に寄進したり、同15年には渋川氏を綾部城(中原)に襲って敗走させたり、明応3年(1494)ごろまでは隆盛の時代で、明応6年(1496)一時太宰府に移ったが、再び大内氏に破れ、小城の晴気城にのがれた。しかしついに大内氏の兵に攻め落され、政資は多久で自殺し、高経も南山(富士町)の市ノ川で自殺した。
 約40年後の天文年間(1532~1555)、その子孫少弐冬尚は少弐の将龍造寺家兼によって、宿敵であった大内氏を破り、神埼の勢福寺城主として栄えていた。ところが馬場頼周のざん言を信じ、家兼一門を殺したので家兼の子孫龍造寺隆信によってついに少弐一門は滅亡の悲運を迎えた。
 勝敗は兵家の常とはいえ、戦国乱世の時代をまざまざと感じさせるものがある。しかし隆円教師の開基になる当常立寺は庶民に根を下した在家仏教として、法灯は永く受けつがれ今日に至っている。

出典:大和町史P.544〜546

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