三反田代官所跡 | さがの歴史・文化お宝帳

三反田代官所跡

所在地 佐賀市大和町三反田
年代 近世
登録ID 2242

出典資料から記載

 三反田は昔、佐賀と筑前(福岡)、佐賀、浜崎に至る交通の要衝で、天明6年(1786)作の絵地図を見ても人家が立ち並び、宿場駅として山内では最も繁栄していたようである。ここに三反田代官所が置かれ高札場もあった。
 高札場は基礎石垣の高さ5尺(1.5m)、長さ1丈余(約3m)の高台に高札4枚が立てられていた記録があり、明治維新になって道路築造のため全部取り除かれたようである。
 昔は佐賀山内、小城山内、神埼山内を含めて山内郷といっていたが、今の松梅・八反原地区、富士町、神埼町の山間部を含んでいる。
 葉隠の6巻に、山内御支配のこと。という見出しで大要次のことが書かれている。
 「ここは神代勝利の支配地であったが、佐嘉の龍造寺隆信としばかしば合戦し、ついに龍造寺領になった所である。ところが隆信から鍋島直茂、勝茂と藩主が代っても、相変わらず山内領民は神代を慕って佐賀藩に対し従順でないところがある。そこで佐賀藩庁では山内をうまく支配できる人物の派遣が先決だと考え、その人物の選考に入ったが適当な器量人が見当たらない。ついに21歳の青年鍋島舎人に決定した。舎人は松瀬に屋敷を構え、山内代官として善政を行った。藩庁のおめがね少しも違わず、山内の郷民は彼を慕って主人のように仕え、佐賀藩へも従がうようになった。彼は山内に刀差(帯刀を許し俸禄はない)500人を命じ鉄砲1挺ずつ持たせた。(註=舎人は鍋島茂利とも称し、後髪を下し入道正哲と号した。長男宗英は2代の代官を勤め、二男杢助は後の深江平兵衛信渓である。)
 舎人の善政に感じた藩庁ではその後も山内、本庄、鍋島の代官、下代(代官の下役)は舎人の組衆から採用し、藩主自ら山内まで、少くとも川上まで来て山内の者に接見し、酒を与え、又山内の者から物を献上し、大庄屋4人お城へまかり出てお礼言上し、お酒を拝領するなど緊密の度はますます加えられていった。時には殿様が不時に山内にお越しになった時も同様の事をした。」
 寛政年間(1789~1801)になって藩内一般に代官所を置くようになり、ここは駄市川原の支配下となった。
出典:大和町史P.529〜530

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