成富兵庫茂安の功績 | さがの歴史・文化お宝帳

成富兵庫茂安の功績

所在地 佐賀市大和町
年代 近世
登録ID 2296

出典資料から記載

封建社会の基盤は農業であったので、幕府を始めとして大名も武士も農業を大切にし、水利事業等には特に力を注ぎ、今日までその恩恵を受けているものも沢山ある。その1つに石井樋がある。佐賀藩では成富兵庫茂安が中心となって治水土木の事業を完成した。茂安は永禄3年(1560)に鍋島町増田に生まれ、幼名を千代師丸又は新九郎と言い、のち信安、中ごろ十右衛門といった。茂安が11歳の時、大友勢8万といわれる大軍がわずか数1000の佐賀城を包囲し、まさに孤城落日を思わせるように切迫していた。茂安の父信種は直茂に従い、今山夜襲軍に加わることになった。茂安は父が止めるのも聞かず、戦争見物に出かけている。隆信はあとでこのことを聞き、彼の豪胆に驚きかつ感銘し、直ちに小姓に召し抱えた。茂安が17歳の天正4年(1576)藤津郡横沢城攻めに参戦したのが初陣である。
 彼は龍造寺隆信についで政家・鍋島直茂・勝茂父子に仕え、直茂の「茂」の一字を授けられ茂安と改め兵庫助と称した。肥後の加藤清正を始め豊臣秀吉、徳川家康にも愛され、特に清正より1万石の知行をもって誘われる程であった。茂安は治水に非凡であるばかりでなく、築城にも秀で熊本城、大阪城、名古屋城、江戸城等にも携わるなど、名将でかつ民政家で、しかも治山治水、干拓土工の技術家として歴史上大きな業績を残した。茂安の行った治水工事は千栗土居(千栗堤)、石井樋、多布施川、牛津水道など20余か所で、千栗土居は筑後川の氾濫を防ぐために12年の歳月を費して設けられた延12㎞に及ぶ大防壁であり、これで大氾濫による大被害を最小限度にくい止めた。そこで千栗近郊の人々は村の名を「茂安村」として、その功績を永遠に残した。
 又佐賀市付近は、古くから治水工事が不完全で水害・干害が多かったので、多布施川を築造し、川上川からの分岐点に大きな石閘を設けることによって、水利の便を計ろうとしたのが石井樋の始まりである。
 今ここを訪れると「成富君水功之碑」が建てられている。この碑は武富時敏が明治21年(1888)ごろ、
若くして佐賀郡長の職にあった時、有志と相計り水功碑を建設しようと尽力し、その後任郡長の横尾純喬が完成したものである。この碑面の題字は副島種臣の書で、碑文は文科大学(東大)教授久米邦武の撰になり、書は武富誠修である。
又各地の山麓に溜池を築造配置し、放水量の調節に尺八(尺八のような穴の井樋)というものを作ったのも茂安の発案で、当時としては驚嘆すべき発想であった。その他疎水工事によって荒野を開墾させ美田のもとを作り、藩祖鍋島直茂公をして諸大名中の治国第一の名君と言わしめたのも、実に茂安の功績であったのである。佐賀市兵庫町も当時沢であったのを開拓させると共に、水路を開発して沃田となした。兵庫村の名は茂安の徳を慕って付けたものである。
出典:大和町史P.267〜269

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