安住勘助と芦刈水道 | さがの歴史・文化お宝帳

安住勘助と芦刈水道

所在地 佐賀市大和町
年代 近世
登録ID 2300

出典資料から記載

 安住勘助は「道古」という名で知られ、今でも土地の人は「どうこさん」といっている。小城藩士でその先祖は安住石見守秀能といい、秀能の妻の於レンは鍋島直茂の姉に当たる人である。勘助の父清右衛門は小城藩祖元茂に仕え、佐保川島郷池上村に住んでいて、田36町に禄高60石をもらっていた。
 勘助は小城2代藩主直能の時、芦刈方面数千石分が水利に乏しく耕作に困っている様子を見て、何とかして川上川の水を引き入れようと思い、先ず川上川の流水の方向を調べようと、深夜ひそかに川上川に泳いで調べること七夜に及んだといわれている。やっと自信を得て、藩主直能に進言し、その命を受けて当時としては思いも及ばぬ立派な芦刈水道を完成させることができた。すなわち、現在の官人橋の下流約50mの所(淀姫神社石段の東側)より分水し、川上地区を横断して三日月町、牛津町を経て芦刈町に及ぶ約12kmの灌漑用の水路を作った。これが芦刈水道である。その一部は吉富地区の戸立によって南に分水し、東芦刈水道となって芦刈町に及んでいる。本流の芦刈水道は途中で幾つもの河川を横断するので、この交差については特に苦労したと思われ、小城祗園川と交わる所では底井樋を架して水を越えさせ、牛津の道路には石井樋を設けた。これが今日の乙女井樋で、この傍らの悪水吐が友田井樋である。こうした井樋の工夫は今日もなお土工の範とされ、この芦刈水道の完成によって恩恵にあずかる農家は生気を取戻し地域発展のもととなった。
 この芦刈水道の建設者に就いては「大楠風」「偉人成富兵庫」「成富兵庫を語る」等によると成富兵庫茂安であるとあり、明治13年(1880)7月、長崎県よりの河上川等についての問答書にも、
 『芦刈方面及び新田等の作水の乏しきため、寛永の始(1624)成富茂安これをなすという。この井樋の水上河上宿の桜馬場の辺りより井樋口下まで河中に細長き島があって分水していた。この島も成富創業以前は無かったという。延宝の頃(1673−1681)蔵人頭(御勘定奉行の職)多久兵庫安胤は分水上一の杭、二の杭など建て井樋口の川浚えをしていた。』
 とあるが「直能公御年譜」附録や土地の人々の伝承では安住勘助の仕事ということになっている。
 「直能公御年譜」附録には次のように記してある。
 『直能公御代、御領分芦刈数千石の所、水少なく候て、耕作難儀候に付き、安住勘助存立にて川上河より水道を掘り申すべくと、水上より夜なく游ぎ、流れを試み候こと七夜ほどにして、水行を考へ今の水分けの所より水道を掘り候へば、芦刈に水懸り不足これなきと積り置き候由、佐賀の方へ下り候地形は少々高くこれあり、小城の方へ低くこれあり候に付き、佐賀役々申談じ、佐賀へ七部通り、小城には三部通り定めこれあり、右の通に候へば、芦刈の水不足これなく、其上は用なしとの積り也、其後勘助頭取にて只今の芦刈水道を掘申候、しかるところ元禄13年頃、佐賀の方より石荒籠を入れ候に付き、小城の水行細く相成候故、川口取合始まり、宝永・享保・元文の頃に至っても色々取合むつかしく相成候へ共、近世淀女ケ渕の上なる石荒籠出来候より、却て小城の方への水行に障これなく、川口取合の論も相止み候也。』
 勘助は貞享元年(1684)6月9日死去したが「……烏の為に害せられて死去す……」とあり、一
般には「道古さんは烏の為につつき殺された」といわれている。これは芦刈水道を開くことが、本藩と小城藩との間に問題化して、本藩の圧力で担当者安住勘助が普通の死に方をしなかったということであろうか。勘助の子孫はこの後浪人させられたという。墓は佐賀市田代2丁目の瑞龍庵にある。墓碑には俗名安住閑介、一寧道古居士、正円良貞大姉 貞享元甲子年六月九日とある。
出典:大和町史P.292〜294

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