今泉蟹守(歌人)

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今泉蟹守(歌人)

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■所在地佐賀市大和町
■登録ID2302

 梅のやま 月たちのぼれ 河上の やなせに落つる 鮎の数見む
この歌は佐賀が生んだ歌人今泉蟹守が川上峡をよんだもので傑作の一つである。
蟹守は文政元年(1818)に佐賀市与賀町に生まれ、名を則才、通称を隼太後に御蒼生と改めた。
又鞆の屋、黎樹園、朏隣居等の別号があり、和漢の学に通じ、歌道には特に秀で佐賀における歌仙と称せられた。蟹守は勤王の志が厚く「勤王百首」を詠んで、その燃ゆるがごとき精神を歌に托したので、若い有為な青年達が続々とつめかけて教えを受けたといわれている。著書も多く、樟葉十家歌集、白縫集、鳳鳴和歌集、明倫百人一首、樟葉百家選等がその主なるものである。晩年は大和町の大願寺と佐賀市高木瀬町長瀬とに居住し、明治31年(1898)2月7日に大願寺で死去した。年81歳であった。大願寺西部高段墓地に蟹守とその妻イソ子の墓があり、川上の実相院には弟子達が師を慕って建てた碑がある。なお佐賀市高木瀬町長瀬源太松の南側にも墓が建てられている(※)。
 蟹守の直孫、今泉大成氏は、佐賀大学教授中原勇夫氏監修による「今泉蟹守歌集」を昭和46年(1971)に発行された。

※『佐賀郡誌』(私立佐賀郡教育会編、大正5年)には「晩年長瀬村大願寺村にて住居せられしが、明治三十一年二月七日大願寺村に没せらる。年は八十一。墓は同村源太松の南側にあり。」とあり、源太松は長瀬村ではなく大願寺村のことである。

出典:大和町史P.296〜297