川上たけると真手 | さがの歴史・文化お宝帳

川上たけると真手

所在地 佐賀市大和町
登録ID 2325

出典資料から記載

 第13代景行天皇の第2皇子日本武尊は始め御名を小碓尊といっておられた。このころ筑紫(福岡県)を根拠地にして北部九州地方をおびやかしていた熊襲という豪族がいた。九州全土を征服して各地の穴ぐらに陣を張っていたが、その威勢に恐れて誰一人刃向う者がいない。そこで天皇は皇子小碓尊に熊襲征伐を命じられた。これが西紀82年12月でこれを平定するまでには凡そ6年間かかったという。小碓尊は英智と武勇にすぐれた方で、弟の彦王を大将とし武内宿禰を補佐役として筑紫の穴ぐらの本陣を攻めことごとく平げたが、その時、頭の熊襲たけるはいち早くどこかへ逃げ去ってしまった。あとで、川上へ逃げ込んだといううわさがあったので、尊は筑紫から舟に乗って肥前の堀江(神野町)に一たん寄港してから、さらに舟を蛎久まで進めここで上陸され、熊襲残党の隠れ場所をひそかに確められた。そのころ大願寺の山中で里の娘たちを大ぜいかり集め大酒宴を張っている者があり、それが熊襲であることがわかった。智謀にたけた尊は女に変装し、夜陰に乗じて里の娘たちの中へまぎれこまれたが誰も気付かない。尊は家来たちに酒をつぎながらも熊襲の頭から目を放さず、次第に酔いが回って座が崩れかかったころには、高枕でうつらうつら眠り始めた。ころはよしとばかり尊は「起きよ、熊襲っ」と叫びざま枕をけとばされた。はっと目をさました頭は上半身を起こして「何やつだ」と叫び、あわてて枕もとの太刀に手を伸ばした。それを取らせてなるものかとさっと一太刀浴びせて「われこそは筑紫で見参した小碓尊だ。天下をわが物顔に騒がしたふらち者め、これが天罰の制裁だ」
と振り上げた二太刀目がみごと頭の急所にきまってその場にどっと崩れ伏したが苦しい息の下から、「われこそは日本一の武勇者として誇り続けてきたが、われ以上に尊のような智勇権謀者のいることを知らなかった。尊こそはまこと日本一の武勇者なれば以後は日本武尊と尊称し奉る。われはこの川上の土地の名をもって姓を改め川上たけると称せん」
 といって息絶えたという。また、尊が二の太刀を浴びせようとした時「待て、われこそは………」といったことからこの辺を「まて村」つまり「真手」という名がつき、現在もその名が残っているという。
そして現在の健福寺の位置より約1kmほど北に最初行基菩薩が創建したという健福寺跡があるが、そこに熊襲の墓と伝えられる墓碑が建っていたという。
出典:大和町史P.657〜658

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