北川副の形成

北川副の形成

■所在地北川副
■登録ID2390

筑紫次郎と呼ばれ、九州一の暴れ川の異名を持つ筑後川は、九重・阿蘇の両火山に、その源を発している。
延長123kmに及ぶ筑後川は、流域の山地を浸食して、大量の土砂を運んで、有明海にそそぐ。
5.7mという日本一の干満の差を持つ有明海の潮流作用と相まって、沿岸に土砂・遊泥が堆積され、数千年の長い歳月を経て筑紫平野が形成されてきた。
干潟の成長量は、河口に近い川副地区で年間7cm、東与賀地区で4.5cm、白石平野で1.5〜2cmにも及ぶ。
この成長量から逆算すると、縄文文化の中期(5,000年前)頃は、神埼町横武、高木瀬町東高木、金立町下九郎、鍋島町森田、三日月町四条の線が、海岸線に当たるとされている。
弥生文化時代の初め、約2,300年前から自然陸地化の開墾が始められたようで、鎌倉時代になって、土地の所有権が認められるようになった。
特に、元軍が来襲した弘安の役(1281)の後は、その論功行賞による領地の配分や食糧確保に迫られ、いよいよ人工による開拓が進められた。
鍋島直正公伝によると、天明3年(1783)行政整理によって、六府方の組織ができ、その中に佐嘉湾海(有明海)の干拓を行う搦(からみ)方が設けられ、干拓が行われるようになった。
約2,000年前の居住圏の南限は、旧国道34号線の牛津〜佐賀〜詫田の線になっている。
西暦1300年頃は、おおむね海抜3mの川副町米納津・南里・本庄町上飯盛の線となっており、1600年(戦国時代の末期)頃は、海抜2.3〜2.4mの犬井道・小々森・広江の線までが、南限となっているものと思われる。
ちなみに、江上町にある標柱は3.6mであるが、文献によれば、大治5年(1130)に、川副荘園からとれた米が献上されていることから、それより前に、北川副町の集落が形成されたと考えられる。

出典:わが郷土北川副町の歴史P13