『野中烏犀圓』第8代、パリー万国博覧会に出席す

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『野中烏犀圓』第8代、パリー万国博覧会に出席す

■所在地佐賀市
■年代近世
■登録ID2563

慶應3年3月(1867)パリーで開催された万国博覧会に、徳川将軍家代表徳川昭徳の他薩摩藩および佐賀藩より参加した。佐賀藩の事務管長は、精煉方の主任・佐野常民であったが、商取引に自信がなかった常民は、親交のあった佐賀市材木町の豪商、野中元右衛門を販売担当の使節に加えた。元右衛門は、腹心の貿易商、深川長右衛門にも参加を求め、佐野は、精煉方の遠山文一郎を随行させた。通訳には、幕府の遣米使節の経験を持つ藩の英学塾『長崎致遠館』の教導、小出千之助を選んだ。野中元右衛門は、烏犀圓本舗、第6代源兵衛の養子の長男として生まれ、第8代となった人である。号を古水といったが、そのころ特に体が弱くなっていた。常民から渡仏の話があったとき、家族達は心配して何度か辞退させようとした。その時、『君命を受けたからには、死んでも本望だ。 フランスは、仏国というから死んだら極楽浄土も近いだろう』と笑い飛ばしていた。彼は、長崎貿易にも着手し、嬉野茶のアメリカ輸出を画策するなどして、家業は栄えて巨富を積んだが、藩主の恩顧を忘れず藩財政の窮乏を救ったことも度々で、ついに士籍に列せられ、また、古水と号し、歌人古川松根に師事した。さて、国際舞台への夢を抱き長崎から出航し、五十数日を経てパリに到着しその後間もなく急病に襲われたため、その夕急逝した。時に55歳、パリの東の方ペール・ラシェーズの墓地に眠った。佐賀藩は、英艦フェートン号事件により、長崎警備の重要性から大砲の鋳造、軍艦の購入など防備の充実に苦心した。膨大な藩財政のため、藩産品の輸出に力を入れるため、上海パリに人材を派遣したのである。
 チヨンマゲ姿で、博覧会に応対した佐賀のコーナーには珍話が多く、人気を呼んだ。
☆ 有田焼の酒徳利の評判がよいのも不思議だった。数日して、客が持ってきたのを見ると、金具を付けてランプの台にしていた。
☆ 和紙の強さに驚いて、ブラウスにしようというパリ娘もいた。
☆ 幅の広いコンブを壁の代わりに買って帰った。
☆ きれいなフランス婦人が『雪駄』のすべすべした皮が気に入ったらしく、自分の頬を軽く叩いていた『それは履き物です』といったのに、婦人は、片方だけ持って帰ろうとした。婦人は、『日本の履物を知るには、一つあったらよい』と言われてがっかりした。

出典:循誘  史跡探訪 歩こう会(P.18)