旧町人町に集まる寺院

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旧町人町に集まる寺院

■所在地佐賀市
■年代中世
■登録ID2567

 循誘校区にかぎったことではないが、校区内のゼンリン地図を見ると、藩政時代の町人町と呼ばれた各町に寺院が集中していることが分かる。東は下今宿町の証明寺から西は願正寺まで22ヶ寺を数える。宗派のちがい、規模の大小はあるが、10ヶ町足らずのこの町にこれだけ存在するのも珍しい。寺院名だけ残し、すでに廃寺となったものも数ヶ寺ある。
 これら寺院の中で創建年代の判明しているものは、ほとんどが慶長13年(1608)頃の総普請で、屋敷や町小路が作られた以降に創建あるいは移建されたものである。これは一朝ことある時には、武士たちの屯所として、または砦として戦略的な意図をもって配置されたものと思われる。創建年代を比べてみると、わずか数年の間に建てられたものもあるし、あまり長くない期間中に建てられたものもある。
 これらの寺院には、いくばくかの寺領としての知行地も与えられたのかも知れないが、この大きな建物の建築費用はどのようにして調達したのだろうか。当時の藩財政も決して豊かでなかっただろうし、富裕な町民も出現しているとも思われない。また寺の維持費は誰が負担したのか。さらにすでにあった小さな街なみに、広大な敷地をどのようにして確保したのか。すでに幕藩体制も確立し戦いの世の中でない時に次々と建てられたのか謎である。
 これらの寺院が江戸初期の一戸ごとに所属寺院を定めた寺請制度とどのようなかかわりがあったのかも興味深い。また、南蛮寺と呼ばれた教会が柳町の地に、寺院と隣接して建設を許可されたのも何かの意図があったのだろうか。
 なお、校区内のある寺には、天文10年(1541)の銘の記された六地蔵があるが、寺の創建時のものか、後世路傍などにあったものを寺に安置したものかは不明。
 ちなみに明治16年長埼県からの佐賀県分離独立を願う有志が集会を開いたのは高木町の観照院であり、同年第1回の県議会を開いたのは願正寺である。

出典:谷島俊四郎