宝瑞山 金福寺 | さがの歴史・文化お宝帳

宝瑞山 金福寺

所在地 佐賀市富士町大字大野916
年代 中世
登録ID 2759

出典資料から記載

 宗派 臨済宗南禅寺派
由緒 正応3年(1290)寅3月の創建、富士町最古の禅刹、開基は普天明禅師薬師如来。
 当寺は、最初の司法卿兼参議になった江藤新平が、まだ世に出る前、脱藩(無届けで藩を脱出したものは打首または永ちっ居)の罪で、ちっ居していたことで有名であるが、それは元治元年(1864)11月に、丸目に引越すまでの2年余りの間のことで、(大野区長は後の子爵富岡敬明)寺は、無住で、狐狸の出るように荒れはてていた。孫の冬雄の言によると「祖父新平が40年の生涯で生活困窮の絶頂だった由」で、次の2詩にも、それがよく表現されている。
〔元治甲子山居〕 江頭南白 作
父母告寒妻子餓 伸書不失報公恩 幽谿古寺疎窓下 染筆写成夜囈辞  同 前谷松風起 幽斉閑又閑 鳴 知何処 只看吐月山
檀家数 16戸、敷地面積 258坪 建物45.75坪 木造草葺。
出典:富士町史下p.413

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金福寺について
この寺は、明治政府の司法卿兼参議になった江藤新平が脱藩の罪で永蟄居を命じられたときに居住し、付近の子どもたちに寺子屋を開いていたと伝えられ、裏山には危険がせまったときに身を隠したといわれる洞穴がある。
江藤新平は弘道館に学んだあと、上佐賀代官所に勤務していたが、文久2年(1862)佐賀藩を脱出し、京都で勤皇運動に身を投じていた。通常であれば、脱藩は死刑に処せられるところであるが、佐賀藩主鍋島直正から命じられたのは永蟄居(長期謹慎)であった。
江藤新平は家族とともに山内目代である富岡敬明を訪ね、当時廃寺であったこの金福寺にて付近の子どもたちに算盤、習字、漢文などを教えていた。また、佐賀の青年志士たちも、たびたび訪ねてきていたと伝えられる。元治元年(1864)11月に丸目に引っ越すまでの2年余りをこの地で過ごした。江藤新平は永蟄居を解かれ慶応4年(1868)正月に上京し、明治政府の役人となった。その後、明治4年(1871)7月に文部大輔となり、翌年司法卿となった。江藤新平は、明治7年(1874)佐賀の役の首謀者として、同年3月25日に捕えられ、同年4月13日に同士ら共に処刑されている。現在その墓は、
佐賀市西田代町の本行寺に在る。
出典:文化振興課提供

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