しれ石の殿さんの墓

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しれ石の殿さんの墓

■所在地佐賀市富士町大字麻那古
■登録ID2764

 富士町内、中原から麻那古への峠道の入口には宝篋印塔や五輪塔が各所に散在している。名も知らぬ人々の供養塔であろう。これは宝篋印塔の一部であるが、今は道も定かでない杉林の中に埋まっている。
誰の墓かわからぬが、『麻那古誌』によれば、円徳寺伝記を引いて次のように伝えている。
 嘉村左衛門尉行高は藤原秀郷の子孫である。源頼朝は行高が源氏に忠誠を尽くしたので、近江国神埼郡常富庄嘉村名の地頭職に任じた。行高から5代目の左近将監俊行は弘安2年(1279)9月に千葉介宗胤が肥前国小城郡に下向してきたとき、宗胤に従ってきた。そして麻那古村大野坂に館を築いてここに住み着いた。
それ以来の子孫は麻那古に住み着き十余代嘉村備後守に及んだ。備後守の子内記に嘉村新左衛門尉と右衛門尉と助五郎という3人の兄弟がいた。嘉村備後守の一族は龍造寺と近かったのか、新左衛門尉は治元年(1555)に神代勝利と戦い、池原で戦死をした。弟右衛門尉も神代勝利との戦いで麻那古の和田で戦死をした。嘉村左衛門丈夫は龍造寺隆信の島原討伐に参加してはなばなしい戦死をした。こうして一族は武運つたなく破れたのであった。三男助五郎の消息は明らかでないが、助五郎の子の龍清が本願寺の顕如上人に願い出て永禄年間に円徳寺を開山したという。殿さんの墓と伝えられているのは、嘉村左近将監俊行一族の墓であろうといわれている。

出典:富士町史下p.629〜p.630