いで(井手)の神

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■所在地佐賀市富士町大字内野
■登録ID2778

 湯の里橋の上部に内野の堰がある。現在はコンクリート造りの立派な堰であるが、大正の初め第一発電所ができる前までは芝の堰であった。そのため、大雨が降るたびに決壊し、その度に大勢の人がかり出され復旧工事にあたった。
 正徳3年(1713)、大雨のため堰は流され復旧工事は進まず、人々の苦悩は増すばかりで社寺で祈祷まで行われるようになった。
内野に新吾左衛門という農民がいた。新吾左衛門も毎日工事に出て一所懸命に働いた。ある夜、疲れて寝ていると、夢枕に七郎神が現れて、「工事がはかどらないのは、水神の怒りがあるからで、誰か人柱に立てば水神の心も和み工事は完成するだろう。」というものであった。新吾左衛門はそのことを、翌朝役人に告げた。役人は人柱まではと思ったが、いつまでたってもはかどらぬ工事にとうとう人柱を立てることにし、人々を集めてその話をした。進んで人柱に立とうという者など無く、とうとう役人は仕方なく「左ないのアシナカを履いた者を人柱に立てる。」と言い渡した。左ないのアシナカを履いた者は新吾左衛門一人であった。普通左ないのアシナカを履くことはないので、新吾左衛門は七郎神が夢枕に立ったときから人柱に立つのは自分しかないと覚悟を決めていた。新吾左衛門の犠牲により、さしもの工事も完成し、枯れかけていた田に水が行き渡るようになった。その後、内野の人々は新吾左衛門の霊を慰めるべく浄財を募り石祠を建立し、井手の神と崇めたという。内野の西光寺の過去帳に次のように記されている。義徳浄流居子正徳三巳歳八月十日 内野新吾左衛門事内野堰ニ人柱立セシニ依リ井手神ト祟メ村中ヨリ祠堂銭八貫目施入ス又七郎社託宣ノ冥加ニ付宝殿 ◎殿ヲ建ル也

出典:富士町史下p.558〜p.559