富岡敬明

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富岡敬明

■所在地佐賀市富士町
■登録ID2890

 富岡敬明は、山内郷の代官時代、脱藩の罪で死罪を赦され永蟄居となっていた江藤新平を迎え、役所近くの金福寺で寺子屋を開かせた。しかし小城藩騒動(1864)といわれる刃傷事件の首謀者として3ヶ年の取調後、死罪の判決を受けるが、本藩藩主鍋島直正(閑叟公)の「敬明は殺すなかれ」の鶴の一声で(江藤新平も同じ)、伊万里久原(小城藩の飛地)の獄で終身禁錮に処せられた(約3ケ年間)
 明治5年3月(1872)北海道支配置への赴任の準備中、山梨県権参事の命令を受く。(これは山岡鉄太郎の推薦による。2人は伊万里で僅か2ケ月余の間柄であったのみであるが)。明治新政府の地租改正に不満を抱いた農民達が、武田信玄以来の大小切といわれる税制(江戸時代も続いていた)を残せとして、一揆の騒動を起こしていたところに権参事として赴任。赴任後、敬明は権令をよく補佐し誠意をもって鎮撫に成功した。さらに県北西部の開拓を率先して奨励するなどで治績をあげる。山梨県民から惜しまれる中に、明治8年9月(1875) 名東県(徳島県)権令となり、本藩と淡路島の支藩との抗争後の民心の安定化に努めた。(稲田騒動と言われる、この争いの結果、太政官は布告をもって、淡路島を兵庫県の管轄とした。さらに、熊本神風連の乱(1875)の後の政情不安と西郷隆盛等の不穏な動きから、大久保利通の要請によって(これも鉄舟の推薦と言われる)明治9年(1877)熊本県権令として赴任した。やがて西南の役となり熊本城で司令長官谷干城少将、参謀長樺山資紀中佐・同副長児玉源太郎中佐(日露戦争中の満州軍総参謀長)特派員川上操六少佐等と籠城(54日間)食糧の不足に苦しみながらも戦い抜いた。乱後は熊本県の開発に努め特に三角に築港するなど、14年間(明治24年1891まで)にわたって県令から知事として業績を残した。(三角町には頌徳碑が建っている)。この時代に上滝空蝉を招いたのである。
 敬明は退官後小城に帰らず山梨県に戻った。これは「あの2人の首謀者が埋められている甲州の地に、自分も骨を埋め申し訳としたい」と、常々語っていたことが動機であったと言う。里垣村(現甲府市)の名誉村会議員をするなど、地域の発展に尽力した。明治42年(1909)88歳の天寿を全う。
 山梨県長坂町日野春の富岡区(富岡敬明の名字をとったもの)に、開拓神社(開拓の恩人として敬明を記念したもの)が建てられ、横手には顕彰碑もある。今でも地区の人から「敬明さん」と慕われている。これらから敬明がこの開発に力を入れ尽力したことがわかるものである。(貴族院議員・従二位勲二等男爵) (子孫は甲府市で葡萄園を経営)。
 書聖といわれている中林梧竹とは従兄弟であり、梧竹から「あんじゃいもん」といって慕われ徳島・熊本・山梨によく尋ねてきたそうで、永い交友があった。山梨の家には梧竹の書が多く残されている。敬明も梧竹とともに書をよくしたそうで、大小切騒動で処刑された首謀者(2名)の頼彰碑建立に際し、騒動の時は取り締まりに当たった立場の者に、顕彰碑文の題字を依頼されたのは奇有のことであり、これは敬明の誠意ある行動言論が農民達の心に刻まれていた為で、それで快く依頼をすることになったものである。
富岡敬明と上滝空蝉の2人が最後の仕事を熊本で為されたのは、共に小城藩出身でこの山内郷の代官・区長として、先輩、後輩の縁によるものであろう。敬明が熊本にありながらも、この山内郷に深く心を寄せていたからであるといえよう。
 小城藩騒動の責を負い、死罪となり赦されたものの、数年を獄窓にて過ごした人が、伊万里県権参事・山梨県権参事・名東県権令・熊本県権令から県知事として20年間にわたる要職を歴任できたのは、敬明の識見力量によるものであろうが、多くの人の支援による幸運にも恵まれたからである。それは獄窓での苦しみを泡の如く消し空白を取り戻すのに十分のものであったと言えるのでないだろうか。
 富岡敬明は、中原区とは特別に関係のある人ではないが、幕末において最後の代官と言われ、また中原公園内にある頌徳碑の上瀧空蝉との関係から敢えて附記した。

出典:富士町史下p.781〜p.783