城山中世山城址

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城山中世山城址

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■所在地佐賀市久保泉町
■登録ID2927

 川久保の山中、勝宿神社の東方で標高115メートルの尾根に、地元ではイモのガンギー(芋の雁木)と呼ばれている土塁を持つ山城址がある。現在その全体が雑木林に埋もれており、外観は普通の山林と大差ないが、一歩その中に踏込んで見ると、南北に細長い尾根に幅2メートル、深さ1.5メートル、長さ35メートル程度の溝が、幅約2メートルの土塁をはさんで東西に走っている。また、尾根の頂には径10メートル程度の平坦地があり、ここに何らかの施設があったのではという想像をかりたててくる。
 この城址は何時、何人によって造営されたものかは不明であるが、神埼の城原地方にはこの種の、しかも大規模な中世山城址の存在が知られており、当地のそれも同時期のものと推定できる。
 いずれにせよ、当地は、北は脊振東は神埼南は佐賀平野を望む交通の要衡であり、この地に何らかの「砦」的施設があってしかるべきものであろう。
 東鹿路から妙楽寺へ出る道を「川久保道」と昔から云っていた。この道は、山内の三瀬・脊振はもとより、福岡・唐津への近道でもあり、川久保を通じ平野部へ通じる重要な交通路であった。
 この開口部にあって、山内の様子も平野部の様子も手に取るようにわかり、三方を険しい崖で囲まれた要害は、山城として持って来いの場所である。従って古代から砦なしの城の機能があった。
 この山頂の南から北へかけて、深い堀が二重にある。これを間道という。日の隈山から北の城原へかけても、この間道が遺っている。
 兵を動かす為か、防禦用だったかわからない。
 いつ、誰が、どの戦に使ったかも戦記には見当たらない。
 或る人は、神代の砦があったとか館・曲輪があったと言うが、古代から中世までは使われても、神代が芦刈から戻ったときは、既に龍造寺・鍋島の配下となっていて、こんな要害を使わせる筈はない。神代の館は平地に設けられた筈である。
 勝宿神社前の通りを「馬責馬場」というが、武家屋敷の近くの馬の調練場・合同馬管理場の外に駄馬待合所、牛馬売買所の場合も馬責馬場という。八ツ溝南の「下馬責馬場」も同様である。

出典:金立・久保泉地区文化財要覧p.35  久保泉町史跡等ガイドブックp.70〜71

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