支石墓

支石墓

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■所在地佐賀市久保泉町
■年代古代
■登録ID2929

 金泉中学校の南、150mあたりは昭和25年頃まで桑畑や野菜畑であったが、段下げをして水田になすとき、かめ棺群が見付かった。
 ここのかめ棺は、木蓋や石蓋をした単かめと、進化した合口かめ棺が多く、僅かに傾斜して埋葬した弥生中期のもの。
 平成2〜3年に行なわれた圃場整備現地調査で、少し離れた所から弥生中・後期の竪穴住居跡やその後の掘立柱建物跡が確認され、この地の農耕集落が分かった。
 その西北、運動場の南50m水田の中に昭和29年まで、大きな扁平石があった。これが脊振山系南麓で初めて発見された『支石墓』である。
 支石墓は中国・朝鮮に多い巨石ドルメン系墓で、わが国では弥生時代に玄海沿岸に発達した。墓の内部は土こう又はかめ棺墓の埋葬施設で、これが壊れないように数箇の石で支え、扁平巨石を蓋とした。だから一見して、支石墓とわかる。
 この石の取扱いには、慎重を期するようにお願いしていたが、適当な忠魂碑竿石が無かったので、これを搬出した。そのとき内部主体を故意に砕き、何も無かったことにして、村徳永共同墓地の中央、せんだんの木の根元に埋めたとのこと。
 当時の人の話を総合すれば、1組の合せ口かめ棺と推定される。
 昭和29年春のことである。久保泉小学校・校庭西の忠魂碑がそれ。
 この石は「ううひと=超巨大人」が金立山に腰掛け、力試しに2つの石を投げた。東の石が村徳永、もう1つが尼寺南小路。(昭和49年発見)
 そのときの左足が町分西屋形の水田「ううひとの足跡」だと。うう人でなく、金立さんだとか、北山正現さんだとも言う。
 いずれにしても、この石を移動すると、うう水=洪水が出るとか、ひねった人はううけがをすると伝え、昔からこの石を大切にしていた。
 古墳を大切にしようとの、いい説話である。

出典:久保泉町史跡等ガイドブックp.30〜31

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