銅戈溶范

銅戈溶范

■所在地佐賀市久保泉町
■年代古代
■登録ID2939

 東の祇園原から檪木・上和泉・草場・篠木野・一丁田線の標高15mから、10mの尾崎・下一・佐大農場・下五・六・村徳永・大野原へかけて、点々と甕棺群や弥生時代の竪穴住居跡がある。
 檪木集落から少し北の一帯もそうで、もとは相当広い範囲にわたって埋蔵していたらしく、弥生土器片が多く見当る。
 ここのかめ棺群は、2箇のかめを組み合わせた「差合」式や「合口」かめ棺で、斜に埋められた弥生中期の須玖式である。
 棺内からは遺体も副葬品も見当っていないという。
 このような大形かめは、それなりの技術がないと製作されないが、各集落毎に製作したかそれとも専門の技術集団集落があったかは明らかでない。いずれにしても文化水準の高まりはあった。
 この共同墓地群近くの納骨堂南をぶどう園に造成中昭和30年頃横尾正幸氏が発見された石製溶范がある。これは砂岩の切り石に、諸刃の剣である矛(戈または鉾とも書く)の形を刻み込み、これに溶けた銅を流し込み同型のものを沢山鋳造した鋳型である。
 これで造られた矛が、実戦には使えなかったが、権力誇示又は宝物として所有され、祭祀には神前に供えられたようだ。いずれにしても、小さな集落の長でなく、いくつかの集落を統合した権力者の私有物と推定される。しかし、この溶范で鋳造された銅戈は発見されていない。
 県内でも他に一例があるだけで、貴重な弥生の遺物であったから、東京・上野の国立博物館が買い上げ、今は国の重要文化財となっている。

出典:久保泉町史跡等ガイドブックp.26〜27