白石原の瓦

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白石原の瓦

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■所在地佐賀市久保泉町白石原
■登録ID2944

 享保の佐賀の町大火(1726)で、佐賀城内外は灰じんに帰し、1835年(天保6)には再び二の丸が焼けた。この頃鯱の門は二の丸に在った。翌年本丸を再建するとき鯱の門を新たに現在地に造営している。
 このとき、白石原の瓦工早田夘太夫英興という人の作った鬼瓦が上棟されている。同時に屋根瓦制作も命じられたであろう。
 写真のとおり、この様に大きな、然も肉厚い焼き物は当時の作品としては珍しい。良質の土を見付け、十二分にこね、歪を避けるための逃げを巧みな曲線で成形し、焼くときの火の強さ・時間を加減し、火のまわり具合を均一に工夫し、また燃料材も選択し焼成されたであろう。不均衡な曲がりや亀裂が完く見当らない。
 作者は、自信と誇りを持って、裏にヘラ書き銘を遺している。
 久保泉公民館保管の仁和館鬼瓦も立派だが、型が小さく、銘がない。
 敗戦直後までは、10軒位の家で嶺瓦・井戸瓦・鬼瓦・つぼ・火鉢等が丹念な「紐造り」手法で作られていた。白石原の地名からして良質の材料と秀れた技術集団が古くからここに存在したことを物語る。名護屋築城には白石原で城瓦を焼いたという。
 肥前の瓦焼きは、大化の改新頃との説があるが、肥前のどこかわからない。土師の職制は大和朝廷にあり、土器の製作も担当。土器師土屋が当地へ来て土器を製作「土屋大明神」の碑があることになっている。
 白石原の墓碑「カオンサン」はこの土器師なのか、開拓者なのか、白石原と深い関係があることだけは間違いない。
 白石原は、春日の国府と神崎の庄を結ぶ街道筋であった。

出典:久保泉町史跡等ガイドブックp.10〜11