川久保へ350町歩

川久保へ350町歩

■所在地佐賀市久保泉町
■登録ID2964

 川久保は、邑主神代家の中心領で秀吉の島津征伐のころ(1587年)には、館をここに定め、知行1万石の領主を迎えた。
 神代家は、佐賀藩が確立した1600年には御親類藩として、本藩と最も濃い血縁関係となり、大正の始めまで栄えていた。
 最後の邑主神代直宝(鍋島直大の従兄)は、明治38年佐賀県に95町余を寄贈、県営第一模範林となるに先立ち、明治20年頃らしいが、当時の川久保村に山林原野100町歩、実面積350町という広大な私領を下賜(無償払い下げ)した。
 川久保は、神代家が筑後から肥前入り以来の縁故地であり、住民と共存共栄して来たので将来の相互発展を期しての払い下げである。これを受けた川久保は、各区から選ばれた区長、地元村会議員で『川久保協議会』を創設し、維持管理並びに運用に当った。明治22年前までは、戸長が統轄した。
 植林に手を着けたのも、県営模範林よりも早いと伝えられる。山頂部・脊梁部の痩せ地には雑木・くぬぎ・松を、谷の湿潤な肥え地には杉を、中間に檜を植えた。里に近い丘陵地の下部は竹林、上部は野焼の出来る草刈場(秣場でもあるが、田の肥料採取に欠かせぬ採草地)とした。誰故草(えひめあやめ)も、野焼のできる草刈場に自生していた。野焼での事故後は、杉・檜を植林した。敗戦前後の食糧難時代は手開墾でこっそり藷・陸稲・瓜・蔬菜畑に、谷間は水田化し、半私有地化された。
昭和30年代に、大字共有を認めないとかで、既墾地の既得権を認め、それ以外の山林原野を大まかに区割、地区割してブル開墾、個人に分割払い下げた。脊梁部等開墾不適地は、代表者外何名で個人私有化、大字有の土地を無くした。
 この開墾地は、昭和36年度から農業構造改善事業として、蜜柑園となり山麓のオレンジベルトを形成した。
 昭和50年の蜜柑生産高3.720トン・園地面積147ha、販売高1億を越し栽培者199名に達し、町の主産業となった。
     生産高     売上げ
    S54 1501t    8910万円
    S59  760t   1億1499万円
 ところが、全国的な過剰生産による価格の暴落で、減反を強いられ、需要の多様化で品種更新をせざるを得なくなり、一方九州横断自動車道の開さくによる用地買収で園地面積が減少し、かつ栽培者の高令化・後継者の離園で労働力が不足し、管理不充分となり、荒れ地・廃園が目立ち初め、転換期を迎えた。
 もうこうなると、神代家が乞い願った地域活性化はおろか、先人の偉業に対する感謝の念は忘れ去られようとしている。
 歴史とは、過ぎ去った昔のことを、面白おかしく知ることでなく、現在をどう対処するか、将来をどうあらしめるかを考えることでの先人の遺業を辿ることである。

出典:久保泉町史跡等ガイドブックp.86〜87