小田氏の統治2

小田氏の統治2

■所在地佐賀市蓮池町
■年代中世
■登録ID343

今を距る約580年前、小田直光がこの地に来り、肥前国佐嘉、神埼、筑後国三潴の三郡に亘り6.000町歩を領し、城廓を構え勢力を張った。この時の城名を小曲城(蓮池城ともいう)と称し、城域は今の諸富町加与丁、小曲地区より蓮池公園所在地付近にまたがり、本丸のほか3か所の出城があった。しかも城の外濠は筑後川に連なり干満の差甚しき急流の江湖であったため平城としてはなかなかの堅城であった。かつて中国の太守大内義隆が来攻したときも小曲城の攻め難きを知って攻城を断念して兵を還したこともあり、また龍造寺氏も幾度か攻略を企てたが非常に苦心したとの伝えもある。
小田氏の祖先は鎌倉幕府源氏3代に仕え、武人としても文人としても有名であった八田知家である。その後裔が、何時の頃からか関東より鎮西に下り、その後、筑後方面で栄えたものが小田氏を姓としたと伝えられている。直光以後鎮光に至るまで8代、約160年間この地方の領主として勢力を保った。第6代資光(覚派入道)、第7代政光、第8代鎮光の3代の頃は龍造寺氏の覇業成らんとする時期に当り互に角逐を繰返していたが、鎮光の代に至って龍造寺隆信の詐謀によって祖先伝来の居城を去り多久城に移り、ここに蓮池の地は龍造寺氏の領するところとなった。
なお、蓮池城を去って多久城に移った鎮光は、元亀元年(1570)大友軍が大挙入肥せる際、大友軍に組し手兵を率いて多久城を出で、水上山に陣を敷いた。しかし、大友軍は今山、その他の地で敗戦したため、鎮光も筑後に逃れ流浪するに至った。隆信は、鎮光が女婿の身でありながら反逆したことを憤り、鎮光の妻室阿安を説いて鎮光を誘引し、客舎に腹臣を忍ばせ暗殺せしめた。ここにおいて小田氏は直光から8代、鎮光に至って滅亡したのである。

出典:芙蓉P.62