龍造寺氏から鍋島氏の統治まで 1

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龍造寺氏から鍋島氏の統治まで 1

■所在地佐賀市蓮池町
■年代中世
■登録ID345

永禄元年(1558)11月中旬頃、龍造寺隆信は江上武種(神埼、勢福寺城主)が少弐冬尚を援けて佐賀城を攻める計画があるとし、先手を打って江上武種を攻めた。この時、先陣を命ぜられたのは蓮池の小田政光、直鳥、崎村、蒲田津の三犬塚氏で、隆信は本陣を姉川城に置いた。
小田政光は龍造寺に降った証拠をみせるのはこの時とばかり、現神埼町莞牟田縄手で江上の軍と会戦した。この時味方が苦戦に落ち入ったため政光は再三にわたり姉川に陣する隆信に援軍を請うたが、胸に一物あった隆信は遂に援軍を出さず、憤慨した政光は大奮戦のあと戦場に散った。このようにして隆信は小田政光を見殺しにしたあと、兵を分けて政光の居城蓮池城を急襲し、ここに蓮池城は龍造寺に帰した。この時、小田の老臣深町入道理忠は蓮池城の木戸を守ってよく防戦し、そのすきに政光の子、鎮光、朝光、増光ら家人一同を三潴郡に落し壮絶な死をとげた。
蓮池城が龍造寺に帰してからは、その一族である龍造寺長信、および家晴等の居城となっていたが、天正12年(1584)隆信が島津家久の軍と島原で戦って戦死するや鍋島直茂が替って蓮池城を守り筑後に備えた。その後間もなく神埼城原城主江上家種に蓮池城を与えた。現在の神埼町、城原町は、その時家種に従って蓮池に移り住んだ人達が付けた名称である。また、佐賀藩初代藩主勝茂公は幼時江上家種の養子となっており蓮池城小曲の館にあって西小路の徳恩寺で学んだ。
文禄2年(1593)家種は朝鮮の役に出征したが釜山浦で客死したので蓮池城は再び鍋島直茂の有に帰した。さらに、鍋島直茂、勝茂の両公は慶長5年(1600)から同16年(1611)まで蓮池城に住み、この間に勝茂の庶長子で後の小城藩主となった元茂が出生している。

出典:芙蓉P.64