戊辰戦争と蓮池藩

戊辰戦争と蓮池藩

  • 戊辰戦争と蓮池藩

■所在地佐賀市蓮池町
■年代近代
■登録ID348

明治元年5月3日、王政復古後間もない新政府に対して奥羽列藩同盟が結成され、さらに北越諸藩が加わって反政府軍が強化されつつあった。これに対し新政府は5月9日、東北諸藩親征の勅書をいただいて各藩に出兵を命じた。このため蓮池藩もこの年10月5日奥羽に向けて出兵した。即ち、石井靱負を隊長として士卒365名、軍夫180名、総員545名をもって編成された蓮池隊は伊万里郷楠久から傭船した英国船に乗船し、日本海を北上、途中佐渡国夷港で飲料水を補給して同月16日に羽州秋田船川港に上陸、直に東北游撃軍久我将軍(公卿出身)の部属として陸路酒田に行き寺院、その他に分宿した。このとき出雲国松江藩の兵士350余名もまた同地に駐屯しており、この両藩兵でもって酒田を警備した。戦乱の鎮定後蓮池藩兵は陸路江戸(当時すでに東京と改称されていた。)に出て麻布龍土町の藩邸で慰労の宴を受け横浜から英船サクラ号で兵庫に入港したが、同港で我兵と船員との間に紛争を生じ兵庫西裁判所に訴う等の事件があり、藩は和解のため停船の損金600両を支払って解決した。兵庫からさらに海路長崎に上陸し、諫早から渡船数十隻に分乗して早津江につき蓮池に凱旋した。この日明治2年10月7日、前年蓮池を出てから1年と2日を経過していた。またこの戦役のため、戦没した方は堤嘉一郎ほか計6名であった。後年その出征の事蹟を後世に伝えるため有志の基金によって明治37年3月蓮池公園内に記念碑が建立された。この碑には戊辰戦争の出征者全員の氏名が刻まれている。なお、記念碑の篆額は游撃軍参謀長船越洋之助、即ち、後の男爵船越衛の書である。

出典:芙蓉P.78