佐賀戦争における蓮池隊 2

  1. 物語・いわれ
  2. 物語・四方山話
  3. 検索結果
  4. 佐賀戦争における蓮池隊 2

佐賀戦争における蓮池隊 2

■所在地佐賀市蓮池町
■年代近代
■登録ID350

このような情況の中で蓮池士族は旧藩校成章館に集合して賛否を問い、激論の後には遂に刃傷沙汰にまで至らんとした。そこで衆議をもって陣内利武を佐賀軍本営のある川上実相院に派遣して両党主に面接し、蓮池士族の実情を伝え、かつ両党主の意向を求めさせた。これに対し両党主は、蓮池の軍事上の重要性を説いて加担を強請して止まず、「佐賀に加担しない場合は自衛上蓮池の人家をことごとく焼却し、もって官軍が占拠しても戦略上の価値なき地となさざるを得ず、しかる場合は人家のみに限らず一般市民の生命もまた保障し難い。」と主張した。利武は帰って以上の情況を皆に告げ、かつ、「土地と人命を救うためには佐賀軍への加担も止むを得ない。」と説き、皆もまた余儀ないことであるとして佐賀軍への加担を決定した。そこで一般市民に対しては戦禍を避け安全なところへ避難するよう説き、一方、当時佐賀県庁に蓮池士族中島修平という人が県官として勤務していたことから大塚成章を県庁に派遣して政府方の情勢を確かめようとした。かくするうちに佐賀軍は2月16日から佐賀城を囲み、18日、県庁を占領した。官軍は18日早朝、城門を開いて突出し、一隊は諸富方面へ、一隊は蓮池、境野、城田、千歳方面に向って脱出した。この日、佐賀軍に加盟した蓮池隊は巨勢村高平まで進撃した頃、斥候から「佐賀勢が蓮池方面に向って進撃中。」との報告があったが、当時、両軍の服装はともに洋服を着用し、官軍は腕章黄色、佐賀勢は赤色を付けており、脱走兵は脱走の途中、避難中の子女から赤布を受け、佐賀軍同様赤腕章を付けていたため、斥候は誤認して佐賀軍と報告したもので、このため蓮池隊は官軍を見逃がす結果となった。しかも、官軍が通過した村落に村民の死傷者を出すことになったのである。その後、蓮池隊は三川村、千歳村方面の防備に当ったが、優勢な官軍が三川村に反撃してきたるや千歳村に撤退した。まもなく反乱は終結し、兵を解いて官軍に降ったのである。この戦争によって蓮池隊の主なる幹部は禁固刑ならびに除族処分となった。また、蓮池地区の犠牲者は10名、現在蓮池公園外の招魂碑に祀られるほか、万部島招魂碑にも合祀されている。
万部島所在の招魂碑の祭典は毎年4月13日、両党首および幹部級処刑の日に行われ、蓮池招魂碑は殉難の日、2月18日に慰霊祭を行う習慣になっている。

出典:芙蓉P.79