長徳寺の芭蕉塚

  1. 建造物
  2. 検索結果
  3. 長徳寺の芭蕉塚

長徳寺の芭蕉塚

  • 長徳寺の芭蕉塚
  • 長徳寺の芭蕉塚
  • 長徳寺の芭蕉塚

■所在地佐賀市東佐賀町11-6
■年代近世
■登録ID468

 昔天明、寛政の頃に無漏庵菊亮という俳人がおり、本名は副島作次右衛門といって、芭蕉門下五十年に及んで修行してその名を全国に響かして、佐賀の俳句の世界では中興の祖と呼ばれていたが、寛政5年3月、芭蕉の百回忌に際してこれを記念し、かつ、冥福を祈念して東佐賀町の長徳寺に、高さ1.93メートルの自然石の表面に次の句を刻み建立した。 『馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり』(この句は、小夜の中山(静岡県金谷駅の北の一名所で東海道の一難所)で詠んだ句)の真筆を埋め、その上に碑を建立したもので当時肥前の俳人悉く集まり、盛大に供養を営んだといわれている。松尾芭蕉は、伊勢の津で有名な伊賀上野赤坂町に生まれ、幼名を金作といい、後に宗房と名のり、通称を甚七郎または、藤七郎、忠右衛門(忠左衛門)といった。弱年のときから、上野にいた藤堂家の若君良忠(よしただ)の近習に選ばれたが、良忠は、大変学問が好きで俳諧も北村季吟に学び、蝉吟(せんぎん)と号していたので、芭蕉もその感化を受けるようになった。 寛文2年(1662)19歳の12月29日が立春であったので『春や来し年や行けん小晦日』の句を残したが、これが芭蕉の句として知られているもっとも古いものである。 『野ざらし』の旅から帰った翌年の春、『古池や蛙飛びこむ水の音』の句を得て、芭蕉独自の詩世界が開けたのである。芭蕉のもっとも大きな旅行は、元禄2年(1689)46歳のときの陸奥、出羽、より北陸の旅であった。『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす、古人も多く旅に死せるあり、予もいづれの年よりか、片の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず』こういう書き出しで始まる『奥の細道』は、芭蕉の紀行文のなかでもっとも優れたものである。幾度か文を改め、句を作り替え、ねりにねって完成したのは5年後の元禄7年のことであった。元禄7年5月には九州への旅を思い立って、芭蕉の子ども次郎兵衛をともなって江戸を出、故郷へたちよって大阪へ入ったのは9月9日であったがそこで病気になり、10月12日の夕刻に51歳でなくなった。辞世の句は、その8日に詠んだ『旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる』である。佐賀県内には、唐津市、伊万里市、佐賀市等に芭蕉の句碑があり、蓮池公園には、『一声の江に横たふやほととぎす』の句碑がある。

出典:ふるさと循誘(P.59)

地図