鏡圓寺

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■所在地佐賀市唐人1-2-17
■登録ID5101

 唐人町の鏡圓寺(浄土宗)は、唐人町の始祖、李宗歓一族及び鍋島更紗の創始者、九山道清の菩提寺である。
 李宗歓は、天正15年(1587)郷里(現朝鮮民主主義人民共和国)の海岸で舟遊びに興じていた折、突然の旋風により船が破損し、日本(現北九州市)に流れ着いた。天正19年(1591)、大宰府にて鍋島藩家臣龍造寺家晴と成富兵庫茂安と出会い、これをきっかけに佐賀城下へ赴いたところ、藩主鍋島直茂にその才を見込まれ、重用されることとなった。『葉隠聞書』や『御用唐人町荒物唐物屋職御由緒書』によると、朝鮮遠征に同行した帰途、宗歓は主君の命を受けて陶工を6~8人連れ帰り、陶器の製造に着手した。直茂公は慶長4年(1599)、宗歓が連れ帰った高麗人などを佐賀城下の十間堀川以北、愛敬嶋村に住まわせ、唐人(異国人)の住む町「唐人町」と名づけた。宗歓は、唐物の繊維品、陶器類、金物類、海産物、荒物など日本にない珍しいものを直輸入し、これらを扱う商人が集まって、今日の唐人町の基礎を形成していった。
 九山道清は、『更紗秘伝書』ならびに『江頭家系図』によれば、慶長3年(1598)、直茂公が朝鮮遠征より帰国する際に連れ帰った高麗人13人のうちの1人である。道清は漢方医の家柄の出であることから、製薬の技法にも優れていた。漢方薬の原料となる薬草は染料となる植物としばしば同一のものであり、それらの高価な材料が、宗歓の海外貿易により比較的容易に入手できたことが、鍋島更紗の創始、発展に重要な役割を果たした。
 『鏡圓寺縁起』によれば、唐人町に居住していた数十人の高麗人について、帰依する仏寺が必要になった(島原の乱以降は、宗門改めが特に厳しくなった)ため、寛永3年(1626)、鍋島勝茂公の姫付老女、秀島源右衛門の母の願いにより、鏡圓寺が創建されたとのことである。
左側の写真は李宗歓の墓碑である。

出典:唐人町物語 ~唐人町と鏡圓寺~ 

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