蒲池鎮並公外一行之霊碑

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蒲池鎮並公外一行之霊碑

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■所在地佐賀市西田代    ※関連 赤松校区 堀川町 延命地蔵
■登録ID5122

 天文20年(1551)、龍造寺隆信は土橋栄益等より佐嘉の城を追われ肥前国から追放された時に柳川城主蒲池鑑盛より筑後国一木村に保護された経緯がある。後に、隆信は鑑盛の嫡男鎮並に娘を嫁がせ、鎮並は大友を離れて隆信と誼を結ぶ等、良好な関係にあった。
 天正6年(1578)の日向耳川の戦いで大友が島津に敗北すると、義父龍造寺隆信の筑後国進攻に蒲池鎮並は全面的に協力した。鎮並との不仲であった蒲地鎮広と隆信との間に和議が成立すると、柳川の領有化を志向する隆信と対立するようになり、ついに野心を挟む姿勢をとった。
 天正8年(1580)、龍造寺隆信は龍造寺政家に総勢1万3千の軍を率いさせ出陣、蒲池鎮並討伐のため柳川に向かわせた。抗戦する鎮並の陣も籠城300余日に及ぶも和を乞うてきた。鎮並は伯父の田尻鑑種の仲介により隆信と和睦を結んだ。
 天正9年(1581)、蒲池鎮並は密かに島津に通じた。鎮並は同国の西牟田鎮豊へ使者を送り、島津の老臣伊集院忠棟よりの状を見せ、島津へ一味あるべき勧めた。しかし西牟田はこれに同意せず、家人向井左京亮を伊集院よりの書札を携えて龍造寺に向かわせた。須古城に居た龍造寺隆信は鎮並が島津の影響下に入ることを恐れ、鎮並を討つべしと謀殺を画策した。5月20日頃、龍造寺は田原伊勢守・秀島源兵衛を使者として柳川へ送り、「昨年冬の和平以後、いまだ禮を受けず。近日佐嘉へ来られたい。然るに須古の新館にて猿楽を興行すべし、其許よりも猿楽の役者共を召し連れて来られたし」と述べた。この次第に対し、鎮並は病気と称して返答しなかった。田原は心賢きものであり、鎮並の母と伯父の蒲池鎮久へと働きかけ、隆信父子は何も別心はないと起請文を以って申し出た。母と鎮久はこれを信用し、鎮並もようやく田原・秀島と対面、承引した。
 隔して5月25日、鎮並は伯父左馬大夫を始めとして、親類家人等200余騎、楽役を含め300余で柳川の城を出立した。これを聞いた家臣大木統光は肥前に赴くこと留まるよう諫言するも、蒲池鎮並は「早斯様に出立ちした上、今引き返すことは見苦しき。その上、天運全からば、縦令剣戟刀杖の中たりとも恐るるに足らむや」と馬を早めて寺井江を渡り、夕方には村中城へ着いた。そして龍造寺久家(政家)と対面、昨年冬の和平の禮を述べ、その夜は饗膳となり、鍋島信生(直茂)も同席した。終夜の酒宴が終わると鎮並等は、城北にある本行寺に宿を取り、翌26日は逗留した。須古城の龍造寺隆信は、土肥出雲神信安をして鎮並に酒肴を贈った。鎮並は悦び隆信に禮謝、その酒肴で出雲守を饗した。また、鎮並は出雲守を前に猿楽を踊って見せ、出雲守は明日の運命を思い落涙したという。
 そして27日未明、本行寺を出立、須古城を目指し与賀の馬場を通ったとき、龍造寺の伏兵である小河信貫・徳島長房・水町彌太右衛門・秀島源兵衛・石井の一族らが、四方より一斉に鬨を上げて襲い掛かった。蒲池鎮並は歯噛みして伯父左馬大夫へ「口惜しき次第かな、我が柳川にて懸念致した通りであった。これも天運やも知れぬが、偏に御辺の勧めに依りて計略にはまったのであるぞ」と憤激した。左馬大夫はこれに何も答えず、謀られた怒りに血が上り、「我らに二心在らざる事、只今見給うべし」と言い捨て、与賀大明神の鳥居の前まで馬を駆け、「汚き龍造寺が仕業かな。おのれ、七生が間は恨み続けてくれる」と叫んだ。そして矢を二筋三筋放つと家の上に駆け登って散々に矢を射掛け、屋根の上から飛び降り烈火の如く戦い、堤左馬允と渡り合うも遂に討ち取られた。龍造寺勢は多大な被害を出しながらも173人を討ち取った。鎮並は一族家臣が討ち死にする隙に、小家に立ち入って沐浴した後、腹掻き切って息絶えた。この戦いの様子は今でも「川は血で真っ赤に染まり、骸は堀を埋めた」と語り継がれている。(参考:北肥戦誌)

 写真は「蒲池鎮並公外一行之霊碑」(日蓮宗本行寺境内)
 蒲池鎮並公外一行の霊を鎮めるために建立された。

出典:豊福英二氏(郷土史の調査研究)

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