原口甚七

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原口甚七

■所在地佐賀市兵庫町
■年代近世
■登録ID573

明治43年4月、愛知県農会編集の『全国篤農家列伝』に、本県から兵庫村原口甚七、東川副村堤善太郎、西川副村山口覚太郎、芦刈村土橋徳三、岩松村古川亮雄の4名が挙げられ、その業績が記載されている。
原口甚七氏は弘化3年(1846)10月5日兵庫村瓦町に生まれた。代々庄屋を勤めたが、父は家を出て一家をたてた。氏はその長男である。18歳の時、父の家業を継いだが家産も豊でなく、学業を修める余裕もなかった。21歳の時父を失い、艱難辛苦家業に専念した。明治3年親兵に選抜されて東上し、4年後帰村した。再び農業に従事し、その改良増収を期して専心努力の結果、1反歩につき実に11俵2斗の類例のない収穫をあげ、人々を驚かせて氏の名は一躍近村に響いた。その後も農業を本位に養蚕の副業にも努力した。こうして明治43年に至ったが、各種の共進会や品評会で幾多の賞与や賞状を受けること数十回に達した。
佐賀県で害虫駆除を奨励した当初、農民は害虫の何であるかを知らず、「気候によって発生し、気候によって死滅する。」と考え、かえって氏の害虫駆除を妨害することもあった。人々のあざける心を気に留めず、害虫の駆除予防を黙々と実行した。氏は県から害虫駆除委員を嘱託され、県内に害虫駆除予防実行組合が設置された際には、同区が最初に選定され、その成績優良によって授賞、模範地区に指定された。組合長としての氏の業績は誠に顕著であった。氏は区民と申し合せて毎月各戸10銭以上の貯金を継続していたが、明治41年を期し、勤倹貯蓄組合を設立して勤倹力行の奨励普及に努めた。原口甚七氏は原口又二の祖父である。

出典:兵庫町史p218